赤い雨

Vol.1

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1.

 子供にとって最初、世界は、それほど敵意に満ちた場所ではなかった。
父親とはぐれたのは、二日前で、昼過ぎにやっと、人里らしい場所に、たどり着いたばかりだった。
 農夫が子供を見つけた。
刈り入れの季節で、麦の穂でいっぱいの荷車を引いていた。
「あれ」
男は、声を上げた。
「旅人にしては、若すぎるんじゃねぇかな」
 子供は、きょとんとして、農夫を見上げた。
質素だが、きちんとした身なりをしている。
誰かのお古を仕立て直した様子で、布地は多少くたびれているが、短いチョッキの裾には、きれいな刺繍がしてあって、ズボンのかぎ裂きは、こまかく繕われていた。
 贅沢はしていないが、両親に愛されている感じの子供だった。
「…さて、ドリスの所の末っ子が、子連れで里帰りしてたっけな」
 知り合いの末娘の夫の、種族名は、思い出せなかった。
最近は、元の種族が何なのか、分からないくらい、混血が進んで、平均化してしまった者の方が、多い。
「あいつは、ちょっと特徴があったが、坊みたいに毛深くてしっぽが長くはなかったな」
 子供は、用心した様に、一歩引いた。
「どこの子なんだ、おめー」
 小さい集落で、村とは言えない程の人数しか、住んでいなかった。
誰もが顔見知りの場所だった。
「自分の名前は、言えるかね」
「…レイ」
子供は、おずおずと答えた。
「どこから来たね」
「あっち…」
 子供が指さしたのは、山を三つも四つも越えても、人里さえない場所だった。
「本当にあっちかね」
 子供は、真剣に考え込んでから、訂正した。
「こっちかも…」
全然、反対の方を指した。
 農夫は、子供の意見を尊重するのは、やめる事にした。
「とにかく家へ来な。メシくらいは食わせてやるし、余分の布団もあるからな」

 農夫の妻は、一足先に畑仕事を切り上げて、家で夕食の支度をしていた。
子供たちは独立して、村を出て行ったが、孫はまだ居なかったので、大喜びで小さい子供を迎えた。
「こんなに小さいのに、二日も山を歩いて来たんだってねぇ。怖かっただろ」
 汚れた顔や手足を拭かれて、子供はくすぐったそうな表情をした。
父親は、猟師だった。
子供は、まだ五歳だったが、山で一人になった時に、最低限生き残る方法は、教えられていた。
尾根伝いに山を下る事。コケや草の生えていない場所の水は、飲まない事。人里に出たら、大人に助けを求める事。
 ただし、その場に居た大人が、自分の種族について、詳しく聞いて来る様だったら、用心して、場合によっては、逃げ出す事。
「この子、おやじさんと狩りに出ていて、モンスターに襲われたんだとよ」
「まぁ、それは難儀だったねぇ」
 テーブルの上にパンとシチューが置かれて、子供は、食事の前のお祈りもしないで、大急ぎで食べ始めた。
 この子の父親は、モンスターに殺されたのかしら…と、農夫の妻は、考えた。
孤児になってしまったんだろうか。
 子供たちは、皆成人して、生活は楽になっていたが、こんな小さい子供の面倒を見るには、自分達は年を取っていて、少しつらいかも知れないと思った。
誰か、子供を欲しがっていた夫婦は、居なかったかしら…。
 子供は、彼女がそんな事を考えているとは、全然思いもしないで、物怖じせずに二杯おかわりして、おなかがいっぱいになると、あくびを始めた。
末の息子が使っていたベッドに、シーツを敷いてやると、あっという間に丸くなって眠ってしまった。

 子供の話では、父親がどうなったのか分からないが、家には母親と兄弟姉妹が、居るという話だった。
「ぼく、お家に帰らないと…」
「そうだな。心配しているだろうから」
 子供が孤児でないと分かって、夫婦は少し気が楽になって、親が見つかるまでくらいなら、面倒を見てもいいと思い始めて居た。
 小さい村なので、農繁期には、皆が協力して畑仕事をする。
その日も全員で刈り入れをして、昼には当番の女達が、畑に昼食を持って来た。
 子供は最初、大人と同じくらいの荷物を運んで見せて、手伝いをしていたが、何しろ小さい子供の事なので、すぐに飽きてしまって、昼頃には、同い年の手伝いをするには小さい子供らと、その辺で遊んでいた。
「あれは、何んだな…。鉄鬼衆みたいに力持ちの子供だが」
「ありゃ、虎人だよ」
農閑期には、行商をしている男が、言った。
「向こうの山奥に、虎人の家族が住んでるらしくてな。春になると、ため込んだ毛皮や干し肉を売りに、町の市場へ来る。
俺は一回、そいつに小麦粉を売った事があるよ」
「じゃあ、たぶんそいつの子供だろう」
「違っていても、同族なら何か知っているだろうしな」
 身元が明らかになったので、子供は村全体に受け入れられた。
春になったら、町へ連れて行って、親を捜してやると言われると、子供は最初、すぐにお家に帰ると言って、泣きじゃくったが、年の近い子供らと一緒に、蒸しパンとミルクを与えられると、黙って食べ始めた。

 春にならないと、家に帰れない以外は、村での生活は、楽しかった。
畑を放り出してまで、子供を助ける程ではなかったが、村人はおおむね親切で、どうせ春にならないと、坊主のお父さんも、山を下りて来ないから…と、なだめた。
 実際には、子供の父親は、モンスターに襲われて、死んでいるかも知れなかったが、何かの情報は、入るだろう。

 その日は、遊び友達が皆んな、留守だった。
年長の子供は、読み書きを習いに行く日で、小さい子は、まだお昼寝の時間だった。
 子供は、一人でボールを転がして遊んでいて、そこへ商人が通りかかった。
「坊やは、この村の子かい」
 子供は、首を横に振った。
「ううん、ぼく、迷子なの」
 商人は、しゃがみ込んで、子供をじろじろ見た。
「だったら、家に帰らなきゃ…な。どこから来たんだ」
「わかんないの…」
 子供は、ちょっと悲しくなったが、すぐに言った。
「でも、春になったら、父ちゃんが来る市場まで、連れて行ってくれるの」
「ふうん」
 商人は、少し考え込んだ。
「だけど坊やは、すぐにお家に帰りたいだろう」
「うん」
「おじさんは、これから、その市場まで行くんだ。良かったら坊やを連れて行ってあげるよ」
「本当?」
「ああ、本当だ。すぐに行こう。早い方がいい」
 子供は、最初うれしそうな表情をしたが、うつむいた。
「…でも、おじちゃんとおばちゃんに、だまって行くのは、良くないよ。それに、借りたボールも、返して行かないと…」
 商人は、苦い表情をして、虎人がバカだというのは、やっぱり迷信だな…と、内心つぶやいた。
それから、にこやかに笑って、子供の両肩を抱いた。
「この村は、働き手が足りないから、坊やみたいな、力持ちの男の子を欲しがっているんだよ。早く出て行かないと、ずうっとここで、畑仕事をする事になるぞ」
 子供は、少し迷っている様子だった。
「ボールは、ここに置いて行けばいい。後で見つけてくれるさ。
おじさんとおばさんが心配しない様に、手紙を書いて、一緒に置いといてやろう」
 商人は、紙に何か書き込んで、ボールと一緒に道ばたに置いた。
それを見て、子供は幾分安心し、商人の後について、歩いて行った。
 夕方に、ボールの持ち主の子供が、書き置きを見つけた。
紙には、流行歌の歌詞が、半分くらい走り書きしてあって、大人達は、それを見て、首をひねった。
 いくら捜しても、その日以来、レイは見つからなかった。

 男は、確かに商人だったが、マニーロを崇拝する海人でもなく、ギルドに加入している、何某かの商売人でもなかった。
男の職業は、人買いだった。
 当時、子供は知らなかったが、虎人は、とても高く売れる商品だったのだ。
 商人と子供は、何日も旅をした。
 商人は、村はずれまで出ると、子供のズボンのベルト通しに、縄を通して結わえ、もう一方の端を、自分の腰にくくりつけた。
「もう一回、迷子になったら、いやだろう」と、言った。
 何回もキャンプして、その度に、テントの近くの木に、縄の端をくくられた。
自分の身の上が、何かやばい事になり始めたのは、子供にもうすうす分かっていた。それでも、人里から離れて、親兄弟に大事にされて育った子供は、他人の悪意に鈍感だった。

 一週間くらい歩いて、やっとまともな宿屋に泊まった。
山育ちの子供は平気だったが、商人が疲れていたのだ。
 それでも、久しぶりに保存食でない、ちゃんとした食事をもらった。
 縄を外してくれたら、もっと食べでのある鳥の雛や魚を捕って来るのに…と、旅の間、子供はずっといらいらしていた。
 出された食事は、ふわふわしたパンに、卵焼きと、野菜が挟んであって、ゆでたジャガイモと、人参が付いていた。
 世話になっていた村でも、ずっと思っていたけど、もうちょっとお肉が食べたいなぁ…と、思った。
 商人は、それにビールをつけて、飲み食いしていたが、子供の不満そうな顔を見て、こいつにミルクでもやってくれと言った。
 そんな物が欲しかった訳でもないが、とりあえずは満足して、子供は寝付いた。

 一月近くかけて、着いた場所はジンメルだった。
別名闘都と呼ばれるこの都市は、毎年行われる格闘技最強選手権と、その間のこまごました試合のあがりで成り立っている、格闘技と賭博のメッカだった。
「虎人だぞ。五万ゼニー以上の値打ちはあるだろう」
妙な建物の奥に連れて行かれて、そんな話が始まった。
「お前、こいつがどこから来たか、分かってんのか。メイファンの子かも知れないんだぞ」
「誰だよ、それ」
商人は、聞き返した。
「タイガー・リリーってリングネームなら、お前も知ってるだろ」
「七年も前に引退した格闘家だろ。そんな奴がどうしたって言うんだ」
「今年の試合には、参加する予定だったが、キャンセルが来てる。子供が行方不明だそうだ」
 商人は、こわばった。
「貴様がさらって来たのか」
「偶然だよ。めずらしい奴を見かけたからな…」
「メイファンは、母ちゃんの名前だ」
子供は、断言した。
「見ろ。取り返しのつかない事に、なりかけてる」
 二人の男は、母親の名前で、青ざめていた。母ちゃんは強いからなぁ…と、子供は思った。
森で会ったモンスターだって、母ちゃんが居たら、一撃だったはずだ。
「あいつがワータイガーになって、暴れて見ろ。ガーランドだって、収拾出来るかどうか…」
「そのガーランドは、こいつを売った金の何パーセントで雇えるんだ」
「奴は、妙な宗教にはまってるから、金では動かん」
 二人の男は、しばらく考えて、未来の安全の為に、泣く泣く子供を手放す事にした。すごい損害だったが、子供の母親は、本当に恐ろしい格闘家だった。
「好きな所へ行け、お前は自由だ」
 子供は、見も知らない土地で解放されて、本当に、天涯孤独の身の上になった。

「売られていた方が、まだ幸せだったろうに…かわいそうに」
闘技場の人達は、皆んなそう言った。
「三十年くらい前に、ここへ売られて来た虎人の女は、十年もしない内に、賞金を貯めて、自分で自分を買い取ったよ。その後も格闘家をしていたがな…、くだらない盗賊の男と所帯を持ったって話だ。坊主だって、それくらい我慢すれば、自由になれたのに」
「ぼくは、今自由になったんだよ」
「そうだな。だからこの町には居られない。今すぐ出て行くんだ」
 そう言われたので、子供は町を出たが、お腹が空いて、近くに他の町もなかったので、すぐに戻って来た。
 今度は、別の人買いに捕まって、もっと遠くに売られそうだったので、逃げ出して、民家に入り込み、丁度用意してあった夕食を食べていたら、大人が入って来て、しこたま殴られた。
 この町は、前に居た村とは、全然違う場所らしかった。
見つからなければ、殴られる事もないと気が付いた子供は、食べ物を盗んで、安全な場所へ持って行って食べた。
子供は素早くて、誰にも見つからなかったし、捕まりもしなかった。
 二回ほど、大きな格闘大会が開かれたが、母親も知り合いも来なかったので、子供は町を出て行く事にした。
 あちこちから、保存食と、一回り大きくなった体に合う服を盗んで、明け方町を出た。
 故郷には、いつか帰れるだろうと考えて、鼻歌を歌いながら、歩き出した。

《つづく》