赤い雨

Vol.5

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5.

 「ごめんねぇ」
 いつも、子守や雑用の仕事をくれる、若い女将さんは、そう言った。
 本当に辛そうな表情で、前よりずっと、やつれて見えた。
「あんたにやってもらいたい仕事は、山ほどあるんだけど、働いてもらっても、あげられるお金も食べ物も、何にもないの」
「そう…大変なんだね」
 何回も子守して、自分になついていた子供達が、兄ちゃん遊んで…と、言って、寄って来た。
「だめよ。お兄ちゃんは、忙しいんだから」
 別に、忙しくはないが、一銭にもならない子守をしている程は、閑ではなかった。
「また今度な…」
 この数週間、ろくに仕事はもらえなかったし、食べ物もお金も、もらえなかった。
「どうにかしなくちゃ…」と、子供はつぶやいて、ぱしんと自分の頬を叩いたが、そんな事をしても、どうなるものでもなかった。
 若旦那が、小作料を値上げしたという事と、バックにヤクザが付いている事は、部外者の子供にも理解できた。
 よくある話で、普段なら、小さな災いだったろうが、今年は飢饉だった。
 それでも、村を食い物にするなら、生殺しにする程度だろうが、若旦那には何か、妙な借金があるらしかった。
 この村を潰してでも、早くまとまった金を手に入れたかったのだろう。
 何だかとても、ヤバイ感じがした。
 年の割りには、今まで色々な目に遭って来ている子供は、一刻も早くこの村を離れた方がいいと、本能的に思った。
 商都でもいい。どこか余所へ今すぐ移動した方が安全だ。

 子供が留まったのは、もう二度と、ケリーに会えなくなってしまうかも知れないと思ったからだった。
 もうちょっとだけ、あと少しだけ。
 そうして、あれは起こった。

 子供が泥棒に戻るのに、そんなに時間はかからなかった。
 仕事があって、食べるのに困らなければ、けっこう真面目に働いたが、どっちも無くなれば、別に、他人の物を盗るのに、そんなに抵抗は無かったからだ。
 何度か物が無くなって、一番最初に疑われたけれども、全然傷つきもしなかった。
 この村で、そんな事をするのは自分だけだと、最初から分かっていたのだ。
 ただ、今まで親しくしていた人達が、口を利いてもくれなくなったのは、思っていたより淋しい事だった。
 最後にジミーと話をしたのは、夏が来る少し前だった。
「お前、最近評判悪いぞ」
「知ってるよ」
 久し振りに会ったジミーは、素朴な田舎の子供だった面影が薄れて、何だか疲れた大人の様に見えた。
「仕事がもらえりゃ、おれだって泥棒なんかしねぇさ」
「まぁ、そうだろうけど」
 遠くから、ジミーの父親が怒鳴っているのが聞こえた。
「おれとしゃべってたら、怒られんじゃないの?」
 肩をすくめて、付け加えた。
「評判、悪いからな」
「オヤジは最近、何にだって怒ってるさ」
 ジミーの頬には、殴られた様なあざがあったが、怖くて深くは訊けなかった。
「お前…さ」
 父親の方に戻りかけて、ジミーは立ち止まった。
 重そうな荷物を、いくつも背負っていた。
 去年だったら、子供にこんな重労働をさせる村人は、誰も居なかった。
「どっか余所へ行けよ」
 この村で、初めて出来た友達にそう言われて、子供は固まった。
「おれの姉ちゃん、売られるんだ」
 うつむいて、ジミーは吐き捨てる様に言った。
「お前は何処へだって行けるんだから、さっさとこんな所、出てけよ。ここに居たって、いい事なんかないだろ」
 返事は、出来なかった。
 子供は、黙り込んで、友達は、親に呼ばれて、大急ぎで走って行った。
 ジミーを見たのは、それが最後だった。
 本当に幸いな事に、それが最後だった。
「おれだって、そんなに、何処へでも行ける訳じゃないんだ…」
 子供はつぶやいて、田んぼのあぜ道を、自分のねぐらに引き返して行った。

 牛小屋が燃えていた。
 正確に言うと、子供が村から、住居として与えられていた、牛小屋の隣の納屋が、燃えていた。
 隣に在った牛舎の牛は、ほとんどが売り飛ばされ、飼料として保存されていた干し草も、もう必要無かったのだろう。
 子供が戻った時、納屋は焼け落ちていて、隣の牛舎に残った二頭の牛が、おびえて啼いていた。
 大急ぎで干し草の燃えかすをかき分けて、ケリーにもらったガラスのコップを捜した。
 長い時間火の中にあったので、溶けて変形した、ガラスの固まりになっていた。
 触ると少し、やけどをした。
 森にモンスターが出始めてから、ここで寝泊まりしていたのは、村の誰もが知っていた。
 貧しくなった村には、単なるこそ泥も、そこまでうっとおしい存在なのだろうかと、子供は思った。
 実際には、腹に据えかねても手が出せない、若旦那とヤクザ者の代わりに、怒りのはけ口にされた様な部分は、多少はあった。
 それでも、実際に子供が泥棒なのには、変わりがなかった。
 子供は、追い詰められて行った。

 その日は、とても良く晴れていて、気持ちのいい天気だった。
 本当には、こんな夏の日に、過ごしやすくて気持ちがいいのは異常な事だったが、弱っている子供には、ありがたかった。
 もう何日も、何も食べていなかった。
 ケリーの家に向かった。
 以前、何か困った事があったら、来なさいと言われたのを、けっこう前から思い出してはいたのだが、頼って行くのは、何だかためらわれたのだ。
 遠くから、ケリーと叔父さんが見えた。
 二人とも、とても疲れた顔をしていて、家の中や外に、出たり入ったりして、忙しく働いていた。
 引っ越しの準備をしているのだという事は、すぐに分かった。
 おずおずと近付いて行くと、叔父さんは、意外な事に、にっこり笑って「やぁ」と言った。
 ケリーは、相変わらず笑わなかったが、むっつりした顔で、叔父さんと同じ様に片手を上げた。
「元気…そうじゃないな」
「そっちこそ」
 叔父さんに向かって言った。
 腕まくりして、力仕事をしている青年は、あんまり医者っぽく見えなかった。
「引っ越すの」
「うん…この村は、もう…」
 何か言いかけて、叔父さんは黙り込んだ。
 それから、手に持っていた荷物を下ろして、ちょっとため息をついてから、言った。
「手伝ってくれるかい?お金は払うから」
 仕事をもらえるのは、久し振りだったが、今の村で現金なんか持っていても、大した物は買えなかったし、自分に売ってくれる人も居ないだろう。
「金より食い物くれ。働くから」
 叔父さんが返事をする前に、ケリーが大急ぎで家の中に戻り、ゆでたジャガイモとすっぱいジャムという、絶妙に変な組み合わせの食べ物をつかんで来た。
 死ぬほど腹が減っていても、あまり美味しいとは言えない組み合わせだったが、気持ちを切り替えて必死で食べた。
「いいよね…」
 ケリーは、真剣な表情で、叔父を見上げた。
「いいけど、せめて付け合わせはバターか何かにしてあげなさい」
 叔父さんは言って、肩をすくめた。
「いくら、ろくな食べ物が残ってないからって、ジャムは無いだろ」

 荷造りが終わってから、なけなしの材料を料理して、三人で食事をした。
 村の人達の大半が食べているのと同じ様な、質素な食事だったが、涙が出るほど有り難かった。
「二日後に、出発するんだ」
 叔父さんは、言った。
 おずおずとお代わりの茶碗を差し出していた子供は、え…と聞き返した。
「東の街道は、まだ、通れないんじゃ…」
「商都から、北の街道を行けば、船が出ている。少し遠回りだが、ウィンディアに近い場所まで行けるんだ」
「へぇ…」
 そんなルートがある事は、初めて知った。
 船に乗るには、お金がかかるし、自分の様な身元の怪しい子供が、一人で乗れる訳もないので、船旅など考えた事も無かったのだ。
「君は、ダウナへ行くんだって?」
 ケリーか、村の誰かから、聞いたのだろう。
 子供は、口の中に食べ物が入っていたので、首だけうなずいた。
「僕らと一緒に、村を出ないか?」
 叔父さんは言った。
 子供は、驚いた。
 隣に座っているケリーを見ると、やはり驚いた顔をしているので、叔父さん一人の考えなのだろう。
「で…でも、おれなんかと…」
 自分の様な、身よりのないこそ泥に、こんな事を言うなんて、この人はいい大人なのに、何て世間知らずでお人好しなんだろう。
「それに、おれ、商都には…」
「うん、知っているよ」
 叔父さんは、食事を終えて、ごちそうさまと言って、手を合わせた。
 ケリーもそうしたので、子供はあわてて二人の仕草を真似た。
「ぼくらの連れなら、そうそう捕まる事もないだろう。船着き場の上流には、橋がある。少々厳しい渓谷だが、ダウナに続いている」
 そんなのは、全然平気だった。
「君は、一刻も早く、ここを出た方がいい。でないと…」
 何か、言いにくそうに口ごもった。
「おれが泥棒だから、村の人達に迷惑がかかるんだろ」
「それもあるけど、村の皆は気が立っているから、君も危ないんだよ」
 この人は、本当におれの事を心配してくれているんだろうか…と、思った。
 少なくとも、下心は無さそうだったし、願ってもない申し出だった。
 村を出られる。
 それに、商都までだけど、ケリーと一緒に旅が出来る。
 ケリーが、食器を片付けに台所へ行ってしまったので、二人はしばらく黙り込んで座っていた。
 気詰まりになって来たし、いつまでもここに居るのも迷惑だろうし、特に帰る所も無いが、外へ出て、今夜のねぐらを捜そうと思った。
 家を出る前に、ひとつ聞いた。
「何で、こんなに親切にしてくれるんだ。おれ、村中で嫌われてるぜ?」
「君はあの子の命の恩人だし…それに」
 叔父さんは、台所の様子を少し窺って、ケリーがまだ、洗い物をしているのを見てから、そっと言った。
「あの子は、君が村に来てから、随分明るくなったよ」
 え…あれで、と、内心思った。
「両親の事故のことは、聞いてるかい」
 うなずいた。
「君は、あの子が立ち直る手助けになってくれた。僕がしてあげられる事は、あまり無いけど、せめて、ここを出る手伝いくらいは、出来ると思うんだ」
 叔父さんの顔は、真剣だった。
「そうか、おじさんはケリーの事が、とても大事なんだね」
「うん」
「おれ、一緒に商都に行く」
 子供は言った。
「旅の間、変な奴が居たら、おれが二人を守ってやるよ」
「そうか、ありがとう」
 二人に見送られて、家を出た。
 もう、村の中の評判は気にしなくていいから、泊まって行けと言われたが、さすがにそれはマズイだろうと、断った。
 ケリーと一緒に、旅が出来る。村を出て行ける。
 とても幸せだった。
 
 何が起こったか、最初、分からなかった。
 畑の外れまで来た時に、頭の上でばさりと奇妙な音がした。
 突然、身動きが取れなくなって、子供はしばらくもがいた。
 自分が何か、目の粗い網の様な物に絡め取られていると気が付いたのは、少ししてからだった。
 四方から、駆け寄って来る人影が見えた。
 やばい、捕まった。
 泥棒だとはっきり分かっている者に対して、今まで誰もそんな事をしようとしなかった方が、本当は不思議だったのだ。
 のんびりした村に、一年近くもの間受け入れられて、子供の感覚は、少し麻痺していた。
 逃げなければ…
 ポケットに仕舞ったナイフを抜こうと体をねじったが、あと少し、届かなかった。
 棒の様な物で殴られ、子供は体を丸めた。
 何発目かに、頭にがつんと衝撃を喰らって、気を失った。

 目を覚ますと、辺りはもう、暗かった。
 農道沿いの木の下に、縛られているのが分かった。
 見知った村人が自分を囲んでいて、辺りには数本の松明が燃えていた。
 体中があちこち痛かったが、どこも折れたりはしていなかった。
 子供は周囲を見回し、大人達が皆、笑い事ではない表情で、手に手に棒や鍬を持って、じりじりとこちらに近付いて来るのに気が付いた。
 人の良い、木訥な人達だっただけに、今の様子は余計、怖かった。
「ごめんよ」
 口を開くつもりなど無かったし、大して反省している訳でもないのに、勝手に言葉が出て来た。
「おれなんかに親切にしてくれたのに、大事な食料を盗って、悪かったよ。もう、二度としない、本当だよ」
 寒くもないのに、体ががたがた震えた。
 殺されるかも知れない…そう思った。
 べらべら喋っているのが、他人の様に聞こえた。
「おれ、ここを出て行くつもりだったんだ。もう、戻って来ない。本当なんだ。殴りたいなら、もっと殴ってもいいよ、だから、お願い…」
 最初の一撃が振り下ろされた時に、子供は、何を言っても聞いてはもらえないだろう事が分かった。
 自分のした事に腹を立てて打ちかかって来たはずなのに、その顔には、怒りの表情も見えなかった。
 おそろしく冷たい目をしていた。
 続いて、別の男が横合いから進み出て、足で蹴った。
 それを切っ掛けに、村人は次々と子供の回りに詰め寄った。
 手に手に持った棒で小突かれ、叩かれ、罵声を浴びせられた。
 騒ぎを聞きつけた他の村人達が、徐々に集まり始め、人垣が出来始めた。
 男達も女達も、皆異様な表情をしていた。
「皆が困っている時に、盗みをする奴は、昔からこうやって道ばたに晒されるって決まってんだ」
「うちの子は、昨日からろくに食べてないのに!」
「何んで納屋ごと燃えちまわなかったんだよ」
 後ろ手に縛られていなければ、子供はもう、並の大人よりずっと強くて素早かったし、どうにでも逃げ出せただろう。
 縄だって、何度も捕まる内に、抜けられる様になっていた。
 しかし、素人が力任せにくくりつけた縄は、結び目もめちゃくちゃで、どうにも解けなかった。
 折角、何もかも上手く行きかけていたのに、どうしてこんな事になっちまうんだよ…。
 ここで死ぬかも知れないと思った。
 去年、この村に来た時も、ここで死んでしまうかもと思った。
 少しの間、楽しく暮らせたから、まぁ、良かったのかなぁ…。
 人垣の向こうで、ケリーの声がしたのは、その時だった。
「やめてよぅ。レイはそこまでひどい事は、してないでしょう」
 続けて、きゃあという悲鳴が、小さく聞こえた。
 それから、皆より少し背の高い叔父さんの頭が、人垣の向こうにちらりと見えた。
「皆さん、冷静になってください。その子は、僕達が連れて行きます。ウィンディアに着いたら、王様に嘆願書を出して、ここでの横行を必ず…」
 助けに来てくれたんだ。
 見た目にもひ弱なインテリの叔父さんと、小さな女の子のケリーでは、村の人達を止めるのは、無理だろう。でも、助けに来てくれたという事実だけで、充分だった。
 その時、二人のもっと後ろから、敵意のこもった村人達よりも恐ろしい言葉が聞こえた。
「止せ!殺しちまったら、売れなくなるだろ」
 若旦那と、取り巻きのヤクザ達が、人垣をかき分けて来るのが見えた。
 捕まった時、その場で殺されなかった理由が分かった。
 全身の毛が逆立った。
 相手は素人じゃない。捕まったらもう、逃げられない。狭くて暗い場所に閉じこめられて、毎日ぶたれて、裸にされて人買い達に値踏みされる。自分には、目の玉が飛び出る様な値段が付けられていて、買える奴はめったに居ないから、延々とそんな月日が続くのだ。
 絶対に嫌だ。
 気が付くと、悲鳴をあげていた。
 獣の咆哮の様な声だった。
 人垣が、一歩下がった。
 背後でべきばきと木の幹がはじけ、あれ程固く括られていた縄が、ばらりと足下に落ちた。
 体の中でも、何かがぶつりと切れた。
 それは、痛みを伴って全身を走ったが、決して不快ではなかった。
 まるで、生まれてから今まで、体中をがんじがらめにされたまま生きて来て、一気に解き放たれた様な感覚だった。
 村人達の表情が、怒りから恐怖に変わっていた。
 二歩、三歩とあとずさり、そして、我先に、お互いを押し退けて逃げ出した。
 子供は立ち上がった。
 いや…それはもう、子供では無かった。
 巨大な虎は、軽々と宙を飛び、人々の間に着地した。

 虫が鳴いていた。月は、中天にかかっていた。
 静かな夜だった。
 子供は周囲を見渡し、誰も自分に襲いかかって来ないのを、不思議な気持ちで眺めた。
 あれ程居た村人達は、散り散りに何処かへ消えて、十数人が地面に倒れてるだけだった。
 何があったのだろう…と、いぶかって、子供は一歩踏み出した。
 足下で水たまりが、ぱしゃりと小さな音を立てた。
 体がこわばった。
 さっきから強烈に漂っている血の臭いが、どこから来るのか、何となく分かってしまったからだ。
 子供は、足下を見た。
 夜目の利く子供には、月明かりで充分だった。
 辺り一面、血の海だった。それはまるで、赤い雨が降り注いだ様に見えた。
 かすかなうめき声が聞こえて、呆然と立ちつくしていた子供は、我に返った。
 知った声だった。
「ケリー!」
 折り重なる様に倒れた男達の下敷きになって、ケリーは居た。
 駆け寄ると、彼女は、かすかに顔を上げた。
「大丈夫か!誰がこんな事…」
 重なった死体を押し退けて、抱き上げた。
 ケリーは、ぼんやりとこちらを見上げ、ふいに大きく目を見開いた。
 ひっ…という短い悲鳴が、喉から漏れた。
 力無くもがいて、子供の腕から抜け出し、はいずる様にして逃げ始めた。
「動いちゃダメだ。怪我してるかも…」
 言いかけた子供は、言葉に詰まった。
 彼女は片足が無かった。
「たすけて…」
 自分ではない誰かに、そう言って、ぱたりとその場に倒れた。もう、息をしていなかった。
 子供は、立ちすくんだ。
 何があったのか、分からなかった。
 いや…、本当には、心の奥底で、おぼろげに理解してはいたのだ。
 ただ、理解するのを全身が拒んでいた。
 子供は、叫び声を上げて、その場を逃げ去った。

 もう誰も、子供を咎める者は居なかった。
 ただ、怯えた様に逃げ出し、戸を閉ざすだけだった。
 約束だった二日後に、子供は思いきってケリーの家をたずねた。
 本当ならもう、荷馬車に積まれていなければいけない荷物は、最後に荷造りをした時のまま、部屋の中に並んでいて、その傍らに、頭と腕に包帯を巻いた叔父さんが、呆然とした表情で椅子に座っていた。
 内心、叔父さんもあの死体の山の中に居たのではないかと思っていた子供は、少しほっとした。
 おずおずと戸を開けると、叔父さんはこちらを見た。
 村人達の様に、怯えてはいなかった。何もかも、どうでもいいという顔だった。
「やぁ、君か」
「あの…おれ…」
 何をしにここへ来たのか、自分でも分からなかった。
 誰かに、何か言って欲しかっただけかも知れない。
「君が悪い訳じゃないよ」
 叔父さんは、そう言った。
「でも、もうここへは来ないでくれ」
 そんな話が聞きたかったのではなかった。
 森からモンスターが襲って来たとか、もっと筋道の立った話で、あの晩の事を説明して欲しかったのだ。でも、無理なのは何となく分かっていた。
「僕は、そんなに優しい人間じゃないんだ…頼むから、何処かへ行ってくれ」
 そう言ってから、叔父さんは肩を震わせて、両手に顔を埋めた。
「ケリー、ケリー、許してくれ。君を見捨てて逃げてしまうなんて…」
 子供は、そっと後ずさって、戸を閉めた。
 ゆっくりと歩き出し、行く先々で、畑仕事をしていた人々が、鍬を放り出して逃げ去った。
 何となく分かってはいたのだ。
 でも、誰かに否定して欲しかった。
 君が悪い訳じゃない…
「でも、おれが悪いんだね」
 幼い頃から言われ続けて来た言葉の意味が、やっと分かり始めていた。
 虎人は人食いのバケモノだ。奴らはモンスターと同じだから。
 村人を打ち倒して暴れ回った事も、奇妙に爽快だった事も、かすかに記憶にあった。
 そんな事、分かりたくなかった。
「たぶん、おれがケリーを殺したんだ」
 だんだん早足で、子供は歩き出した。涙が出てきた。
「うう…そんなの、嫌だよぅ」
 子供は走り出した。
 畑を突っ切り、丘を越え、森に向かって走り続けた。
 それ以来、村で子供の姿を見た者は、居なかった。

《つづく》