第八章 山の生活 1. 2. 3. 4. 5.
第九章 北帰行  
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第八章 山の生活-1-

 五年の間に、パダンの政情は、目まぐるしく変わった。
 アレクの父親、クバルナーガ王に替わった、ガラット大統領も、傍目から見て、決して善政を敷いた訳ではないが、崩壊しかけていた財政を、強引な手段とはいえ、建て直そうと努力していた。
 部外者の目から見れば、有効な手段ではなかったが、彼がこの国の将来を、本気で考え、行動した事だけは、確かだ。しかし、パダンの経済は、革命後二年間で、ほぼ破綻した。
 バイカラの町が、にぎわいを見せたのは、私達が最初の冬籠もりをした年だけで、都心部の荒廃は、貧しい田舎町まで、徐々に及んで来ていた。

 とりあえず、一年目の冬は、村や町は平穏だったが、平地育ちの王子様と、地中海育ちのオヤジは、パニックに巻き込まれた。
「薪が足りん」
 どう計算しても、全然足りないので、私は青ざめた。
 ムウが、燃料は足りていると言い切り、村の男達も、大丈夫だと証言したのに、一日で使う、薪の量を、冬の終わる日にちで割ると、全然足りないのだ。
「聖闘士だから、暖房は我慢しろと言う事か。それにしても、足りん」
「暖房はともかく、煮炊きの薪は必要ですよ。僕、悪い予感がするんですけど」
 アレクは、おずおずと言った。
「冬の間、一回もお風呂を使わなければ、薪の計算は、辻褄が合います」
「うぎゃぴー」
 取り乱したので、デスマスクみたいな悲鳴をあげてしまった。
 あなたの知らない世界…とかいう、シオンの言葉が蘇った。
 大体、村の住民が、風呂に入っているのは、見た事も聞いた事もない。
 先生が使っていたらしい、野外の風呂は、冬には寒くていやだなぁ…と、考えていたが、冬場は室内で行水していたのだろうと、甘く考えていた。
 ヒマラヤ山脈を望む、冬には極寒のこの土地で、体を洗う為に、水と燃料を消費するのは、大バカ者だ。
「ああ…わしって、聖域で、おそらく一番、お風呂が好きで、綺麗好きの男…」
「僕って、確信はないけど、たぶん絶対、一番育ちのいい、聖闘士候補…」
 わしら二人は、ため息をついた。
「どうしよう、アレク〜」
「お師匠様〜」
 わしらは、手を取り合って、途方に暮れたが、アレクは、一瞬で立ち直った。
「ま、仕方ないか。お風呂に入らないと、死ぬわけじゃないし」
「そんな、簡単に諦めんでも…」
「王宮に監禁されてた時よりは、ましですよ。大丈夫、人間、風呂どころか、顔も洗わず、歯も磨かないで、着替えもなしに、二ヵ月くらい、じめじめした所にじっとしてても、別に死にはしません」
 実体験に基づいた話は、十歳の子供が言っても、重みがあるなぁ…と、思った。
 別の房から漂っていた、死体の腐臭を思い出して、ふいに居たたまれない気持ちになったが、アレクは、特に他意があって言った様子もないので、風呂の話は、そこで終わった。

 冬の間は、実践の訓練よりも、紙の上の学問に力を入れるつもりだったが、アレクの学力は、考えていたよりも、かなり高かった。
 いくらかの課程は、とばして先へ進んでも、何の問題もないくらいだった。
 英国語の他に、ラテン語とフランス語の読み書きが出来たし、理数系の知識に関しては、聖闘士が一通り知っておかなければならない、最低のラインは、楽にクリア出来る学力があった。
「何んだ、お前に教える事って、机の上じゃ、もう、あんまりないんだな」
「いやー、育ちいいし、頭もいいから、僕って」
「それじゃ、少し早いが、先に行こうか」
 町に出た時に、黒板代わりに買って来た、ペンキを塗った板に、囲炉裏に残った炭で、人間の形を描いた。
「お前も、いずれは小宇宙を使いこなせる様になるとは思うが、生身での戦闘力も、聖闘士には必要だ。その為には、効率よく人体を破壊する為に、医学的な知識を学ばなくてはならない」
 アレクが、不愉快な顔をしたので、続けた。
「格闘の技術に優れていれば、小宇宙で互角な相手でも…いや、圧倒的に有利な相手にさえ、勝つ事が出来るぞ」
「たとえば、僕みたいな子供でも、大人に勝てるんですか」
「今のお前だったら、一対一なら、たいていの大人には勝てる。
言っておくが、今のお前は、まだ、小宇宙なんか、全然身につけてないぞ」
 アレクは、意外そうな顔をした。
 今までの訓練で、どれくらい強くなっているか、自分では理解していないのだろう。
「効率よく壊せるって事は、逆に言えば治療もある程度出来る。単なる骨折くらいは、自分で治療できない様では、実戦の役には立たないぞ」
 アレクは、真面目な顔でうなずいたが、格闘技に必要な、解剖学の学習は、彼の意外な弱点を、暴露する事になった。

 同時に始めた、精神集中の訓練では、アレクの上達は、早かった。
 常人にでも、生まれ付き小宇宙の力が強い者は居る。しかし、それを使いこなす為には、一瞬の内に、小宇宙を高める訓練が必要だ。
 容易な事ではない。聖闘士の修行がつまづくのは、たいていこの時点だ。
 幼い頃から、指導者としての教育を受けていたアレクは、自分の感情を抑えて、コントロールする訓練には、楽について来れた。
 ただ、彼は、あまりにも育ちが良かったのだ。
 冬場で、時期も動き回るには向いていなかったので、私は、訓練の課程に、かなり乱暴な実習を組み込んでしまった。
 一つ目の方は、少し早まったかと後悔するくらい、苛酷な物だったが、七転八倒しながらも、アレクはそれを切り抜けた。
 精神を、一点に集中して、自力で高めなければ、抜け出せない、苛酷な結界を、周囲に巡らせたのだ。
 死なない程度で、こちらから助け船を出すつもりだったが、精神と肉体を、同時に絡め取った結界を、アレクは、瀕死の状態まで追い込まれながら、こちらの助力を拒否して、自力で粉砕した。
 助けようとしていて、はねつけられたのでは、私だって、無傷では居られない。
 半日は、動けなかった。
 アレクのダメージは、もっと大きかったが、彼は、私を傷つけた事を、悔いていた。
単なるガキに、思い切り反撃された、こちらの精神的ダメージの方が、普通は大きいのだが、その時は、弟子の成長の方が、嬉しかった。
 この調子で行けば、五年どころか、聖闘士の訓練の、最低ラインである四年を待たずして、この子供は、聖衣を手に入れるかも知れない。
 しかし、飛び抜けた才能を持つ者にありがちだが、アレクにも、妙な弱点があった。

 はっきり言うと、アレクは、育ちが良すぎた。
 精神的に攻められた時には、屈強な大人でも、耐えられない様な状況を切り抜けたくせに、肉体的な損傷となると、全くダメだったのだ。
 先の訓練のダメージが回復するのを待って、外部からの刺激が全くなくても、精神を一点に集める訓練を続けた。
 最初は、二時間も三時間もかかったが、続ける内に、十分かそこらで、完全に集中した状態まで持って行ける様になった。
 むろん、実戦の役になどは、まだまだ立たないが、目に見えて上達すれば、張り合いも出来る。
 物覚えも良い子供だったので、私は、手加減なしに、どんどん先へ進んでしまった。
 その日、解剖学の講義をしていた時に、アレクが質問した。
「関節を、外したりはめたり出来るのは、理屈では分かりますけど、それって、普通に考えたら、けっこう大怪我したのと同じでしょう。自分でそんな事、出来るんですか」
「ああ、何んだ。やって見せようか?」
 どこを外して見せようかと、しばらく思案した。
 後で腫れても、日常生活に支障のない場所がいいのだが…。
「痛くないんですか」
「そりゃ、ちょっとは痛いけどな」
「じゃあ、いいです」
 この前、精神集中の訓練で、私にまでダメージを負わせてしまったのを、気にしているのかも知れない。
「それじゃあ、自分でやってみるか?何、上手くやれば、大して痛くはないからな。自分で元に戻せなかったら、わしがやってやるから。そんじゃ、外すぞ」
 ごく、軽い気持ちで、利き腕ではない方の肩をつかんで、すこっと関節を外した。
「自力で戻せるもんじゃないから、こう、右手で支えて、腕をまっすぐにして床についてから、体重をかけると…」
 アレクは、人の話を全然聞いていなかった。
 しばらく、茫然と、自分の肩を見ていて、それからふいに、パニックに陥った。

 悲鳴をあげて、大騒ぎしている彼を、ぶんなぐって取り押さえ、肩を元どおりに戻して固定してから、布団に寝かせるのには、少し時間がかかった。
 それは、普通、関節が外れたらけっこう痛いが、取り乱して大騒ぎする程のものではない。
 大体、聖闘士になろうってガキが、この程度で大騒ぎをしていてどうするのだ。
「おかしいな…我慢強いガキだったくせに。今までやって来た訓練の方が、よっぽどしんどいはずだけどなぁ」
 区切って、アレクの部屋にしていた方は、めったに入った事も、のぞいた事もなかったが、子供なりに考えて、少ない小物を棚に飾ったりして、小綺麗な様子だった。私の部屋の方が、かなり破滅的に汚い。
 布団に寝かせてから、しばらくすると、子供はしくしく泣きだした。
 まあ、いきなり肩の関節なんか外された子供の反応としては、ごく正常なのだが、普段の彼らしくないので、面食らった。
「痛いよう」
「それは、ちょっとぐらいは痛いだろうが、あんなに大騒ぎしなければ、すぐに元に戻せたんだぞ。少し腫れるだろうから、冷やそう」
「このまま、放っておくの?お医者を呼んでよ、お願いだから」
「寝呆けた事を言うな。きれいな外し方をしたんだ。このまま動かさないでそっとしておけば、治る」
「いやだよう、お医者さまを呼んで」
 本当に、痛くて我慢出来ないというより、だだをこねている感じだった。
「どこから呼ぶんだ。二日かけて、町から連れて来るのか。その間に治っちまうぞ」
 子供は、布団を頭からかぶって、また、しくしく泣きだした。
「痛み止めならあるから、飲んで少し寝ろ」
 バター茶と一緒に、鎮痛剤を飲ませて、肩にしぼった手ぬぐいを乗せた。
 しばらく、様子を見ていて、手ぬぐいをもう一度、冷やし直そうと外した時に、アレクは言った。
「お師匠様は、ひどいよ。いつも、ぼくに無茶な事ばかり要求して、出来るのが当然だと思ってるんだ」
「無茶じゃないだろ。現にお前は、今まで、わしが思った以上に良くやったじゃないか」
 アレクの反応が、少し不思議だったので、たずねた。
「いきなり、痛い目に合わせたから、怒ったのか」
「脱臼したら、お医者に診せるのが当たり前じゃないか。なんで、そんなに平気で居るんですか」
 今まで、もっとキツい目に合っても、泣き言も愚痴も言わなかったのに、脱臼ごときでうろたえている理由が、何となく、分かった。
「お前って、もしかして、骨が外れたってだけの理由で、取り乱してるだろう」
 単なる、こまごまとした打撲や擦り傷は平気なのに、ちゃんとした怪我だと、軽傷でもだめなんだろうか。
「大丈夫だ。大丈夫でない事なんか、お前にはしない」
 頭をなでようとしたが、はねのけられた。
 いつもだったら、私の前では、英語で話しているのに、その時彼は、パダンの言葉で、早口に叫んだ。
「お前なんか嫌いだ!一緒に来なけりゃ、殺されるんじゃなかったら、誰がこんな所に居るもんか」
 その時までは、私は、この子供の事など、本当はどうでも良かった。いや、自分では、そうだと思っていた。
 手っ取り早く聖闘士にして、一刻も早く、国へ帰れれば良かったのだ。
 そう思っていたにも関わらず、子供に面と向かって嫌いだと言われた時に、ひどく傷ついた気持ちになった。自分では気が付いていなかったが、私は、この強情なガキを、ずいぶん好きになっていたのだ。
 こちらを一方的に罵って、どうせ言葉なんか分からないだろうという顔をしているのが、無性に腹が立った。
 ガキの枕元に、平手を叩き付けて、顔を近付けた。
「てめえ、自分が一体、何になる修行をしてると思ってる!悲しい事だが、格闘技の選手になるんじゃねぇんだよ。そうなれるんだったら、俺だって、余程幸せだったろうよ」
 パダン語で、一気にまくしたてると、子供は、ぎょっとした顔をした。
「どうしても避けられないなら、人だって殺さなきゃならんし、骨が外れてても、腹を裂かれて内臓がはみ出してても、戦わなきゃならん時には、戦うんだよ」
「そんなのは嫌だ。強くなったら、誰とも争わなくて済むんじゃないのか?他の人を踏み躙らなきゃならないんだったら、弱いままで居た方がましだ」
 子供の表情は真剣だった。
 一体、どんな目に遭ったんだ、このガキは。
 普通、ガキだったら(いや、たいていの大人でも)他人に勝つ為に、強くなりたいだろう。他人を傷つけない為に、強くなりたいなんて、まっとうに育ったガキの考える事じゃない。
 子供が、あんまり能天気な様子で居たので、あの、腐った様な王宮の地下から、強引な手段で連れ出して来た事を、私は忘れかけていた。
 周りで腐っていたのは、誰だったのだろう。
 私の申し出を断れば、子供もその仲間入りをするのは明白で、聖闘士の修行を拒否する余地など、全く無かったのかも知れない。
 私とカノンが、修行を始めた時には、真剣に拒否すれば、実家に戻されるか、最悪でも、養護施設に保護されただろう。
 この子供には、もう、家族も、戻るべき国も、頼る人も居ない。唯一の保護者は私で、おまけにそいつは、手っ取り早く弟子を聖闘士にして、故郷に戻る事しか考えてないときている。
 冗談じゃない。こんな状態、わしだったら、もっと早くキレるぞ。
 今までして来た訓練も、アレクなら出来ると確信はあったが、半分は、実行するには二年は早い物だった。
「辛いなら、どうして今まで言わなかったんだ。言わなきゃ、何も分からないじゃないか」
「言って分かるか!」
「言わなきゃ、もっと分からん!」
 思わず、大声で怒鳴ってしまった。
 子供が、また強情な表情に戻って、口をつぐんでしまったのが、ひどく辛かった。
「すまん、話し合えば済む事なのに、きつい言い方をしてしまった」
 謝ると、子供は少し、意外そうな顔をした。
「わしは、カンのいい方じゃないんだ。嫌な事があるんなら、ちょっとでいいから、態度に出してくれないか。さっきみたいに、な」
 子供は、頭から布団をかぶって、向こうを向いてしまった。
 すねているのだろうか。
 影に隠れて、一人で泣かれるより、よほどマシだった。
「今日の修行は、お前にやるには、早かった。先週やったやつもな。わしは、修行を始めて三年してから、それを先生にやられたよ」
 子供は、布団の中で聞いているらしいので、続けた。
「悪かった、ごめん。今日はもう、勉強も休んでかまわんから、晩メシまで寝ていろ」
 今だにドアをつけていないので、代わりに下げたままにしてある、毛織の分厚い毛布をめくって、狭い部屋を出た。
 子供は、背後で何か、一人で考えている。
 考えさせておこう。
 私も、少し考えなければならない。

 夕食の支度を始める頃に、子供は起きて来た。
 地黒なので、顔色は分かりにくいのだが、緊張した感じがないから、鎮痛剤が良く効いたのだろう。
 裸足で、ぺたぺた歩いて来て、これからやろうと思っていた、ジャガ芋の皮むきをしようと、ナイフを手に取った。
 左手を、肩を動かさない様に、胸元に固定されているので、やりにくそうだ。
「それはいいから、火加減見ててくれ。手を切りそうで、あぶなっかしい」
「前から思ってたけど、お師匠様が料理してる方が、ずっと危なそうですよ」
 だいぶ慣れたつもりだったのに、王子さま育ちの子供から見ても、今だに危ない料理なんだろうか。
「そうだな。じゃあ、味付けは任すから、ナイフは寄越せ。今日は、塩漬けの肉と、野菜を一緒に煮込んで、小麦粉を練ったやつを、平たいパンみたいに焼いて付け合わせにしようと思ってたんだが」
「塩抜きしてないなら、このままでも、ちょっとからいですよ。もう少し具を増やして、明日もこれ、食べましょう。あ、そこの脂身、炒め物に使うから、よけといてください」
「お前、料理人の才能、あるよな」
「お師匠様は、こんなに料理が出来ないで、今までどうしていたんです」
「してくれる人が居たから、つい…な」
「ああ、国に奥さんが居るんですね」
 実は、クリスと知り合うより、ずっと以前から、ゴジラとアイオロスしか食えない、デストロイヤーな料理しか作れなかったのだが、深く説明すると、けっこう長い。
「奥さんじゃなくて、恋人なんだ。料理は、上手だよ」
「どんな人です」
「優しくてけなげな、いい女だよ」
「ふうん」
 あまり、ぴんと来ない返事だ。
「ああ、写真あるから、見る?」
「見せてください」
 鍋をほったらかして、こっちへ来た。
 カノンにもらった、りっぱなコートの内ポケットに入れて、持ち歩いていたので(寒いから、家の中だが上着を着ていた)取り出して渡した。
 アレクは、写真を手に取った時、一瞬ぎょっとした顔をしたが、目をこすってから、ランプに近付いて、じっくりながめた。
「…で、実際はどういう人なんです」
 返して寄越された写真は、あの、えっちな方のやつだった。
 ずざーっと顔から血の気が引いた。
「…いや、ちょっとすけべで、乱暴者な所も、あるかな…」

 えっちな写真の一枚や二枚、持っていたからと言って、別にやましくも何ともないのだが、子供相手だと、どうも気まずい。
 何に使うのかとか、突っ込まれない内に、さっさと仕舞って、ちゃんと服を着た普通の写真を見せたが、人間やはり、第一印象というのは、拭えない物だ。
 どうしよう…顔も合わせない内から、クリスの第一印象をぼろぼろにしてしまった。
 メシを食いながら、なんとなく一人で気まずい雰囲気になってしまった。
「まあ、その…お前は子供だから、まだ分からんと思うが、あれはあれで、持っているだけで、けっこううれしいものなんだ」
 子供は、煮込んだ野菜を、平たいパンに乗せて、片手で器用に丸めて食べ始めた。
「国に恋人とか、居たんですね」
「意外そうだな」
「お師匠様、自分の事とか、全然話してくれないから」
 育ちがいいので、口の中に食物をつめこんだままでは、おしゃべりなんかしないから、少し間を置いてから、そう言った。
「あれ、そうだっけ」
 はしを使う練習をしているので、デスマスク伝授の、どうでもいいシチューの具を摘もうとしたが、あぐらをかいた膝の上に落としてしまった。
 しょうがないので、手で拾って、口に入れた。
「そういうの、お行儀悪い…」
 アレクは、少し眉をしかめた。
「別に、そんな事、興味ないだろうと思って。秘密でも何でもないから、聞かれたら話すけど」
「じゃあ、聞いていい?」
「いいぞ」
「お師匠様も、国に帰ったら、家族とか居るの?」
「そりゃあ、木の股から生まれた訳じゃないからなぁ。両親はもう居ないが、兄弟は居るよ」
「妹とか、弟が?」
「わしら、末っ子なんだ。兄が二人に、姉が三人。小さい時に聖域で修行を始めたから、一緒に育ったのは、弟だけだが」
「それ、話の辻褄が合ってませんよ。末っ子なのに弟が居たりして…」
「双子なんだよ。もう一人はカノンって言ってな、ここへ来る時の餞別に、このジャケットと土方靴をくれた」
「ありがたい方ですねぇ。あれ、暖かいんですよ」
 ここまで来る旅の途中で、内装の方のジャケットは、アレクにやってしまっていた。最近寒いから、時々着ている。
「うん、まだまだ寒くなるらしいな。お前、寒いのは平気か?」
「二年前に、イギリスに留学した事があるんですよ。ここの冬って、ロンドンより寒いですかね」
「知らんよ。イギリスなんか、行った事も見た事もないから」
「ええっ、同じヨーロッパなのに」
「全然違う場所だ。お前だって、タイやミャンマーには、行った事もないだろ」
「ありますよ」
 あっさり言われた。この、お坊っちゃまが…。
「留学なんかしてたのか。英語、上手い訳だなぁ」
「いえ、これは家庭教師のアーサーに教わったんです。インドと一緒で、植民地だった時代があるから、英国語を話せるのは、一般教養の内なんです」
 少し、言葉を切って続けた。
「感心した理由じゃないですが、異国の言葉を学ぶのは、有意義ですよね」
 ふいに、英語ではなく、パダン語で、アレクは話した。
「何時の間に、この国の言葉を憶えたんですか」
「だいぶ前から、話しているだろう。バシクらとバザーに出た時、話せないと不便じゃないか」
「ずいぶん素早く憶えますねぇ」
「そうでもない。この国の言葉は、系統が違うから、記憶は出来るが、使い方は理解しにくいぞ」
「あの、集中力を高める訓練を積めば、物事を素早く記憶出来るんですね」
「うん、そうだ」
 ひとしきりメシを食って、煙草を一本くわえて、ランプのフードを開けて、火をつけた。
 バザーで売っていた、フィルターの付いてない両切り煙草で、買い出しに行けない間は、一日三本と決めていたので、今日はこれでおしまいだった。
「なあ、わしも、ちょっと聞いていいか?」
「何をです」
 アレクは、怪訝な顔をした。
「お前も、自分の事は、全然話さないが、聞いたら答えてくれるのか」
 子供は、しばらく黙っていたが、真っすぐこちらを見て、言った。
「ええ、楽しい話じゃないですけど」

 そんな事があってから、アレクは少しづつ、自分の事を話し始めた。
 彼の両親は、大体想像した通りだったが、死んでいた。
 クバルナーガ王の死は、アテネに居た頃に報道で知った通りだったが、王妃だったアレクの母親が、一緒に死んだのは、初耳だった。
 この国では、表向きは、病死した事になっているが、国外では、今頃は、もっと違った報道がされているだろう。
 まだ三つだった妹は、アレクと同様に軟禁されてから、しばらくして亡くなったそうだ。
 あまり、丈夫な性質じゃなかったから…と、アレクは、割と静かな口調で言った。
 十数年前に病死した、国王の先妻の子供で、彼とは異母兄弟だった二人の兄は、王位継承権の第一位と二位の人間だと云うせいで、謀殺されていた。
「今の政権に反発する勢力には、僕らは、神輿の上に乗せるには、格好の人間ですからね。僕が殺されなかったのは、まだ子供だったからです」
「ひどい話だ」
 聞いているだけで、辛くなってしまう。
 もっと時間が経てば、たぶんアレクも、無事ではなかったのだろう。
「父のしていた事は、許される事ではなかったと思います。ヒンズー教徒を圧迫し、同胞の古い習慣も切り捨てて、武力と財力を大きくする事で、国を発展させようとした。
 多くの国民が犠牲になって、兄達と僕は、父上を止めようとしたけど、出来なかったんです」
 間違った理想の為に、国を巻き込んだ王と、昔の自分の姿が重なって、居たたまれない気持ちだった。
 聖域の内乱だったから、自分を守る力もない、普通の人間は、巻き込まないで済んだが、違う状況なら、どうだったろう。
「この国を捨てて、聖闘士になりたいと言ったのは、嘘です」
 アレクは、きちんと座って、そう、説明した。
「僕は、あのままでは死んでいたし、もっと生きていたかったし、強くなりたかったから、お師匠様に付いて来た。一人でも生きて行けるくらい、強くなったら、ここから逃げるつもりで居たんです」
「まだ、逃げる程、強くないのか」
「お師匠様、インドの国境まで逃げる時に、自分は寝ないで、僕を運んでくれた。バイカラの市場で、ごはん食べてる時に、僕が欲しいって思ってたら、自分の分まで、お皿に盛ってくれたでしょう」
「そんなの、当たり前じゃないか。お前は、子供だし、育ち盛りだから」
「今まで、そんな事をしてくれた人は、居なかったから。それに、修行も最初は辛かったけど、上達すると面白いし、聖闘士になるのも、悪くはないかな…って」
 子供は、そこで一息ついて、少し茶を飲んだ。
「こんな人に付いて来ちゃって、本当にどうしようって思う事も、たまにはありますけど」
「わしも、お前みたいな強情なくそガキ、引き受けちまって、どうしようって、たまに思うよ」
 アレクは、鼻の頭に、ちょっとしわをよせて、ちぇっという表情をした。
 こうして見ていると、最初に会った頃よりは、だいぶ表情があるし、何を考えているのか分かる様になって来たなと思った。
「お師匠様って柄じゃないからな、わしは。お前も、あんまり他人の弟子になるの、向いてるタイプじゃないと思うよ」
 アレクは、返事はしなかったが、けっこう真面目な表情で聞いていた。
「どうせ向いてないなら、対等な付き合いをしよう。その方が、お互いに、言いたい事も言いやすいだろうし、上手い関係を結べると思うんだ」
 子供は、しばらく考えてから、言った。
「不思議な事を考えるんですね、お師匠様は。でも、悪くないかも知れない」
 子供が、反対でない様子なので、とりあえずそうしてみる事にした。

《つづく》