第八章 山の生活-4-
それはそうと、私が偽名で(ゼーテスの名義を、使わせてもらっていた)設けている口座から、後ろめたい滞在をしている外人なのをいい事に、勝手にお金を懐に入れている銀行員…もしくは役人が居る事は、アレクとの愛人関係を疑われ、数少ない世間体を犠牲にした甲斐あって、明白となった。
全然、うれしくない。
相手の罪状を、明らかにするのは、勝手知ったる自分の国でなら、それなりに楽しい作業だったろうが、やばい子供を連れている、不法滞在者としては、関わりたくない類の事だ。
言われた通り、クリスに任せる事にした。
子供は、順調に育って行って、小生意気な口を利く事も多くなったが、それなりに、人間的にも大きくなっているのが分かったので、時折クソガキとか怒鳴ったりはしたが、おおむね私は満足だった。
しかし、忘れていたのだが、子供は、いつまでも子供という訳ではないのだ。
アレクは、日増しに大きくなってはいたが、西欧人の基準からすると(近所の子供達と比べても少し)幼く見えるので、彼が今年、幾つになったのか、すっかり忘れていた。
修行を積んで、いくらかの小宇宙は操れる様になってはいたが、私の気持ちの中では、彼は、当時の首都レブマ(現在の首都は、別の場所にある)から連れ出した子供だったのだ。
ある日、子供は、何か変な事を言い始めた。
「お師匠様…」
「血尿なら、却下」
大体、お師匠様呼ばわりされて、まっとうな話題だったためしがないので、私は先に言った。
アレクは、がちょーん…と言った感じで、一歩引いたが、すぐに持ち直した。
「近いけど、違います」
「えー、じゃあ、蟯虫がわいたのか。あれは、わしもちょっと、気にしていたのだが…。大して害はないらしいけど、このままで帰ったら、絶対家に入れてもらえんからな…。故郷へ帰るまでには、虫下しを…」
「寄生虫の事は、僕も以前から気になっていましたけど、この環境で生活して行く間は、駆虫するのは無理です。それと、今わいてるのは、蟯虫 じゃなくて、条虫 (サナダムシ)ですよ」
「冷静に言うなよ」
虫と共存するのは、あんまりいい気持ちじゃない。
「それで…、血尿がどうしたって…?」
「血尿の話なんか、してません」
アレクは、まじな表情で言った。
「血尿だったら、原因がわかってて安心なのに…」
原因が不明らしい。
私も、ちょっと不安になったので、黙って聞いた。
「二ヶ月くらい前から、何か朝起きたら、変な物が出てて、下着が汚れている事があって…。おもらしとか、する様な年じゃないし、何か変だし。もしかして、僕って、泌尿器系が弱いタイプなのかな…。血尿も出したし」
「えーと…」
うぎゃー大変じゃ〜という単語が、頭の中を一回りした。
「あの…、つかぬ事をうかがいますが…」
私は、おそるおそる聞いた。
「お前、今年で幾つだっけ…」
アレクは、明らかに、愛弟子の年齢も忘れたのか…という表情をした。
「今年の春で、十三歳になりましたけど」
いらん事まで、つけ加えた。
「サガは、今年で四十歳でしたよね」
「そうだっけ…?」
自分の年まで忘れてるんじゃ、しょうがないか…、とか、アレクはぼやいた。
「そうか。お前って、ちっちゃくて子供っぽいけど、内容はそれなりに育っていたんだなぁ。えらいぞ」
頭をなでてやったら、嫌な表情をされた。
「何の話です。人が泌尿器系の病気で悩んでいるのに」
「うーむ、説明すると長いのだが、せねばなるまい。今まで忘れていたわしが、うかつだった」
「はぁ?」
「それにしても、お前、すけべな本を回し読みしたり、近所の色っぽいお姉さんが、男と逢い引きしてたら、覗きに行く様な、そーゆー友達って、居なかったのか」
「色っぽいお姉さんって、パクチィさんの事ですか」
「誰じゃ〜そいつは」
「セーター編み直すの手伝ってもらったり、お総菜をもらったりしてるにの、名前も憶えてないんですか」
「何んだ、あの小娘か」
そういえば、名前も知らなかった。
名前が判明したのは、めでたいが、今はそれどころではない。
「お前な…、年の割には物知りなのに、もしかして、赤ん坊がどうやったら生まれるかとか、そういうのは、分かってないんじゃ…」
「そんな事、軽々しく、口にしてはいけません」
アレクは、きりっとして言った。
「真実、愛し合っている夫婦にだけ、神様が授けてくださるのです」
「う…間違っている訳ではないが、全然違う」
「そうですか。僕も実は、最近、少し違うんじゃないかと思っていたんです」
「そうか、お前は賢明で正しい」
アレクの肩に手を置いて、私は言った。
「いいか、わしはこれから、ピュアなお子様が、絶望して寝込む様な事を、一気に言うぞ。しかし、お前は、もう子供じゃないのだから、知らなかったでは、済まされない」
「はぁ…」
「長い話になるから、座って聞け」
アレクは、怪訝そうな顔で座った。
どの辺から話そうか、少し迷ったが、どうせ全部話すのだから、適当に始める事にした。
「結論から先に言うと、お前は、世間的には子供だが、生物学的には、もう大人だ。気に入った女が居たら、子供を生ませる事も出来る」
予想していたのと、違う話題になったらしく、アレクは変な顔をした。
「卵子と精子が結合すると、子供が出来るとか…、そういう学問的な事は、お前なら知っていそうだな」
「えーと、なんとなく…」
「人間も動物なので、大人になったら、精子や卵子を、定期的に製造するが、たいがい、その年齢では、世間的には未成年なので、子供は作らない。そんな訳で、余った物は、排泄される。お前は、病気ではなくて、ちゃんと育っていて、生殖に使わなかった精子が排泄されているだけだ」
アレクは、変な表情をしたが、質問した。
「病気じゃないのは分かって、安心しましたが、それのどこが、寝込む様な恐ろしい話なんです」
「…いや、話すと長いよ…」
「長いんですか」
こんな事は、放っておいても、悪い友達(例・アイオロス)とか、悪い兄弟(例・カノン)とか居て、何となくそれなりに分かってしまう物なのだが、何となくのまま、放置しておくと、後々どういう間違いが起こるか、身を以て体験済みなので、きっちりと片を付けておく、つもりであった。
つもりだったのに、日々の生活に追われて、すっかり忘れていたのだ。
「いかん…本当なら、セックスしたら、子供ができるとか、どうやったら避妊出来るとか、そういう事も教えておかないといけない年頃なのに、夢精したくらいで、泌尿器系の病気だとか言っている様では、大事だ」
一人でうつうつと考えてしまったら、アレクは急かした。
「長いんだったら、早く話してください。水が無くなったから、汲みに行きたいんです」
病気じゃないと分かると、いつもながら、現金だった。
「くう、わしが弟子の性教育で、こんなに悩んでいるのに、お前は既に、汚れたパンツを洗濯する事しか、考えてないな」
「昼御飯を作るお水もないんです」
それは、大きな問題である。
「では、水汲みに行く道々話すから、桶を持って、付いて来なさい」
両手に桶を下げて、アレクは、常人の七倍くらいの速度で付いて来たが、二往復した辺りで、話題が具体的になって来ると、少しうろたえている様子だった。
普段なら、水汲みをして、その辺の片づけをしたら、軽い運動で体をほぐした後、昼食まで模擬戦の相手をして、どの辺りが良くて、どこが悪かったか指摘して、拳の型を少し教えたり、弱点になっている所を、トレーニングさせたりするのだが、その日は昼食まで延々と、十三歳くらいの男の子なら、ぜひ知っておいた方がいい事柄(少なくとも、私はそう考えていた)を、話し続けた。
アレクは、うつろな表情で聞いていたが、昼食後の訓練では、崖から転げ落ちたりしていた。
晩飯の時にも、アレクはうつろな表情をしていた。
「メシをこぼすな、もったいない」
「あう」
私がやったら行儀が悪いと責めるくせに、こぼれた飯粒を拾って、口に入れた。
「大体お前、物知りのくせに、今まで本当に、何も知らなかったのか」
「そうです」
「うーむ、もっと、何でも話せる友達を作った方がいいぞ。一緒にエロ本を読んだり、便所の裏で煙草を回し吸いしたりする様な…」
「サガの友達って、そういう人達なんですか」
「そういう人だ。しかし、どんなに強い相手に囲まれても、あいつらと背中合わせで戦っていれば、背後から襲われる事は、ないと信じられるよ」
「ふうん」
アレクは、ひとしきりご飯を食べて(いつでも、食欲はあるのだ)から、言った。
「でも、僕はいずれ、ここを離れて、ギリシャに行かなければいけないんだし、そんな友達が居ても、別れる時辛いだけだよ」
彼は、何気なく言ったが、私の方が、胸がひやりとした。
あんな言い方はしたが、アレクにも、随分親しい友達が、何人か居るのは、知っていたからだ。
「離れても、友達は友達だろう。お前だって、大人になれば、行きたい場所へ行けるし、連絡を取るだけなら、いずれはこの村も、電話が引かれるだろう。手紙も書ける。本当の友達なら、離れても分かり合えるさ」
子供は、少し寂しそうな表情をした。
いや…、アレクはもう、子供の表情は、していなくて、ちょっと哀しい顔で笑った。
「うん。でも、友達と離れるのは、やっぱり寂しいよ」
そうだなぁと、私はうなずいた。
「ぎゃああーっ」
翌朝、朝飯を作ろうと、裏の畑から菜っぱをちぎっていると、家の中から異様な女の悲鳴がした。
軒下に吊したタマネギを、急いでわしづかみにして、家に入ると、例の小娘が、かまどの脇で、煮物の入った鉢を握りしめたまま、硬直していた。
「何事だ?」
周囲の気配を探ったが、何の異常も感じられない。
「大丈夫か?何があった」
「何があったか、聞きたいのはこっちだがね」
彼女は、言った。
「先生、子供と二人暮らしで、女っ気が無くてさみしいのは分かるが、弟子に手を出したり、家の中にすけべな絵を描き散らしたりするのは、どうかと思うぞ」
はっと視線を移すと、部屋の隅のテーブルと、黒板の代わりに使っていた、ペンキを塗った板は、一面、下品な便所の落書き状態だった。
昨日、アレクに色んなお話をする時に、口で説明するだけでは分からないと云うので、律儀に図解してしまったのだ。
カノンとかが描けば、単なるすけべな絵で済むのだが(単なる…では済まない程度の内容ではあるが)絵のへたくそな私が描いたせいで、便所の落書き度は、高い。
「うわぁあ。これはひどい」
「そう思うなら、消しておく方がいいよ」
小娘は、手に持っていた煮物の鉢を押しつけた。
「これ、夕べの残りだけど、先生所は、女手がなくて大変だから、持って行ってやれって、母さんが…」
「そうか、ありがとう」
「時々は、家の中の事も、手伝ってあげろって…」
「すまんな」
「でも、もう来ないかも…」
「違うんだ。これには、深い訳があって、決してスケベ心で描いたのではないのだ。アレクが、十三にもなって、全然何も知らなくて、泌尿器系の病気になったとか言って、うろたえているので、懇切丁寧に、図解付きで、正しい性教育をしていただけなのだ」
小娘は、しばらく黙っていたが、ため息をついた。
「普通は、もう少しワンクッション置いてから、徐々に教えないか?いきなり、こんな激しい話しまでされたら、心に傷を負うと思うが」
「ええっ、そうなのか」
「あの子、とても十三には見えないよ。まあ、男の子の方が、成長は遅いけどな。ちゃんと、ご飯は食べさせてるか?」
「けっこう、人の三倍くらいは、食ってるんだけどな…」
東洋人は、大体若く見えるのだが、同じ人種の彼女が見ても、子供っぽいというのは、問題だ。
「そうか。まあ、ちゃんと声変わりもしてるし、それなら心配ないよ」
「え…、気が付かなかった。そういえば、何か変な声になったと思っていたが」
「一番問題があるのは、先生だね」
小娘ににらまれて、私はひるんだ。
「あの子の拳法の修行をするのは、先生がやればいいけども、それ以外の面倒は、村の、余裕がある家の誰かがみた方がいいんじゃないかって、皆言ってるよ」
「うう…、的確な意見で、反論出来ない」
「十三歳にもなって、何も知らないで、いきなりこんな、すけべな落書きを見せられたら、私なら家出するね」
「家出だと…」
顔を洗って、便所へ行っているだけにしては、長い間姿が見えない。
「そうか、中々やるな」
「感心してないで、探すんだよ」
「こんな山奥で、ぐれるのはむつかしいぞ。すぐに戻るだろう」
「甘いね、私の従兄弟の兄ちゃんは、ぐれて山賊になって、今は、怪しい薬まで運んでいるというウワサだよ」
「うわ、ダイナミックなぐれ方」
「先生、もっと気をつけてやらねば、だめだよ。年頃の男の子なんだから」
女の子ならともかく、何で、男が男の子に気を使わねばならんのだ。
「放っておけばいい。どうせその辺で、昨日洗えなかった、汚れたパンツでも洗濯しとるんだ」
言ってから、はっと顔を上げると、入り口にアレクが立っていて、片手には薪を抱えて、もう一方には、予想通り洗濯した下着を持って、こっちをにらんでいた。
「なぜ、そんな話を、べらべらと…」
「何んだ、戻ったなら、さっさと薪をくれよ。朝飯、早く食いたいだろう」
「そんなの、いらない」
アレクは、うつむいていたが、やにわに薪をこっちに投げつけた。
「サガのバカ!」
言うなり、とりあえずパンツは持ったまま、走り去ってしまった。
「どうしたんだろう…あいつ」
小娘は、既にざくざくと、家にある鍋に、煮物を移し変えていた。
「それは、近所の、綺麗で色っぽいお姉さんの前で、あんな話しをされたら、年頃の男の子なら、たいてい気を悪くするもんだよ」
「誰だ、その、綺麗なお姉さんというのは」
やにわに、小娘まで、猛然と気を悪くして、煮物の入っていた鉢を、がしっとつかんで、出て行ってしまった。
「本当だったら、お総菜もらったら、器は洗って、返す時に、米とか豆なんかを、二三粒入れとくんだが、先生は外人だから、かんべんしといたるわ」
かんべんされてしまった。
「無かったら、マッチでもええぞ」
変な捨てゼリフを残して、小娘は立ち去った。
アレクは、二時間ほど家出して、腹が空いたので、戻って来た。
田舎でぐれるには、山賊になるくらいの覚悟が要るのだ。
その年は、聖域からの仕送りが、滞ったりして(仕送り自体は、ちゃんとしてくれていたのだが、私らの手元には、届かなかった)けっこう厳しい年になったが、アレクを、聖闘士にする為の、本格的な修行に移ったのも、その年だった。
彼は、もう、ひ弱な子供ではなかったし、もっと早くに修行を始めていれば、聖闘士の位を得ていても、おかしくない年だった。
十二宮で、星矢と戦った頃、彼は今のアレクと同い年だったはずだ。
「それにしちゃ、子供っぽいんだよな。同じ東洋人だし、苦労人育ちのくせして」
「何か、不満でもあるんですか」
アレクは、むっとした表情をした。
自分でも、小柄でガキっぽいのは、気にしているらしい。
「別に、不満ではないが、大事な話をするので、聞いてほしい」
「もう、何を聞いても、驚きませんよ」
先頃の、何のワンクッションも置かない、はげしい性教育が、尾を引いているらしく、アレクは、冷めた目をした。
「あれは、もう終わりだ。後は自分で、色々実践してくれ。今日は、もっと別の話だ」
「はい…」
普段なら、格闘の稽古をするにも、せいぜい庭先か、少し入った山間なので、こんな山奥の、獣しか来ない様な河原に連れて来られたのが、不思議らしかった。
「お前は今まで、聖闘士になる為の修行をして来たが、はっきり言って、格闘技の達人や選手なら、今のお前より強い奴は、山ほど居る」
「自分が、そんなに強いなんて、自惚れてはないですよ。これから、もっと強くなる自信なら、あるけど」
実際には、この子供は、私の目から見ても、けっこう強かった。
ただ、聖闘士の位をもらうには、まだ未熟だったに過ぎない。
「…うん。だから、今なら引き返せるという事なんだ」
「はぁ?」
アレクは、けげんな顔をした。
「今だったら、お前は、ちょっと強すぎるだけの、普通の人間だ。聖闘士になれば、得る物も多いが、失う物も多い。引き返す、最後のチャンスだと言っているんだ」
「今更、そんな事言われても、僕には、帰る家も国もないんですよ。僕が邪魔になったなら、はっきり、そう言ってください」
「お前は、邪魔じゃないし、嫌いでもない。正直言って、師弟関係を抜きにしても、お前は好きだ。だから、こうして、普通なら弟子には言わない様な事を、話しているんだ」
アレクが、十字架座の聖闘士になれるだろう事は、確信していた。
このまま修行を続ければ、近い内に聖衣を得られるだけの力は、身に付けるだろうし、私はそれで、故郷に帰れる。
しかし、この子供が、それで本当に幸せなのだろうか。
彼は子供だが、聖闘士だけやって来た私は、知らない様な事を、たくさん知っていて、おそらく自分なりの善悪の判断も、世界観もあるだろう。
この村に留まって、自分の身の上を明らかにしても、もう、敵に回った連中に、易々と捕まったり殺されたりしないだけの、力はある。
聖闘士になるという事は、この国を、事実上捨てるという事だ。
私とカノンは、五歳で聖域に入って、十一で聖闘士になった。
自分達が、何を得て、何を捨てたのか、全然理解もしないで、私は実の弟から聖衣と地位を奪い取って、聖闘士になったし、カノンも、試合で負けて、聖衣を取られたという以外には、特に何も感じていなかった。
何も知らなかったから、自分達が聖闘士でなかったら…、とかいう事は、大人になるまで、考えた事もなかったし、疑問にも思わなかった。
アレクは子供だが、そういう事も考えられる分別は、持っている。
「聖闘士になったからと言って、その他の全ての道が、閉ざされた訳じゃない。作家や芸術家にも、なれるだろうし、学者になりたければ、学業に付く事も出来る。しかし、お前は、二度とスポーツの公式競技には、参加出来ないし、聖闘士の力を以てして、個人の独断で、戦争を含む政治活動に、関与する事も出来ない」
アレクは、少し厳しい表情をした。
「たとえば、この国がどんな状態になっても、お前は、黙って見捨てるか、言葉で人を説得し、動かす事以外は、許されない。」
残酷な言葉だが、つけ加えた。
「何万もの人の命が危険にさらされても、それが天災や事故でない限り、お前は同胞を見殺しにしなければならない。アテナに、救えと命令されない限り、たとえ、その能力があっても…だ」
アレクは、きつい表情をして、こちらを見た。
「わしら聖闘士は、精神や肉体は、普通の人間だ。聖闘士の力というのは、個人の判断で振るうには、あまりにも大きすぎる。歯止めが必要なんだよ」
「行動すれば、誰かを救えても?」
「お前が、世間に聖闘士の力で干渉して、誰かを救ったとして、そのせいで、他の誰かが危険にさらされないと、言い切れるか。はっきり言うが、私の元で力をつけて、それでこの国をどうにかしようと思っているなら、今現在で破門だ」
「僕は、そうしようと、思っていました」
暫く黙ってから、アレクは静かにそう言った。
先刻と違って、穏やかな表情をしていた。
「でも、物理的な破壊力を身に付けて、それで物事を解決しようとするなら、僕はあの人と同じです」
あの人というのが、死んでしまったアレクの父親だという事は、何となく分かった。
「僕は、あの人の様には、なりたくない。
強くはなりたいです。その力で、魔星を封印して、人の役に立てるなら、それもいい事だと思います。でも、僕は、自分が何になりたいのか、まだ、良く分からない」
「そうか…」
十三歳の子供なら、自分の将来には、夢も希望も、不安もあるだろう。
今、先の事を決めさせるのは、間違っているかも知れない。
しかし、これから先、手に入れる力は、間違いでは済まされない類の物だ。
「聖闘士になったら、出来ない事は、今、説明した。修行を止めても、お前の身柄は保護する。どんな質問にも答える。自分の意志で、決めてくれ」
アレクは、しばらく黙った。
黙っているから、考えているのだと思った。
少ししてから、アレクは言った。
「聖闘士になる事は、三年前に決めました。決心を変えるつもりは、ないです。その先の事は、聖闘士になってから、考えます」
「他に選べなかったから、そうしたのじゃないのか。考え直すチャンスは、今しかないんだぞ」
「サガは、僕を聖闘士にしたくないんですか?」
アレクが、変な顔をして、私を見上げたので、私も、聖闘士候補の師匠としては、ずいぶん奇妙な事を言っているなぁ…と、気が付いた。
「…ごめん。そうかも知れない」
「聖闘士になったのを、後悔しているの?」
真顔で聞かれたので、私は少しうろたえた。
そんな事を聞く人間は、今まで居なかったからだ。
「いや…」
答えかけて、口ごもってしまった。
聖闘士ではない自分は、想像もつかないのに、今までずっと、自分は、もしかしたら、もっと別の者になれたかも知れないと、思い続けていたのだ。
「…そうだな、少し後悔している。でも、今の自分は、嫌いじゃないよ」
「良かった。僕もサガは嫌いじゃない」
アレクは、笑った。
「後悔するかも知れないけど、僕は自分で選んだ。だから、これからどうしたらいいか、教えて」
聖闘士の修行というのは、通常の人間に、耐えられる物ではない。
その日の内に、半死にになるまでどつき回されて、アレクはすぐさま後悔する事になった。
「大体サガは、今まで僕と組み合うのに、どんくらい手ぇ抜いてたんですか」
「うむ。口では言い現せないな」
あまりさっさと、倒れてしまったので、私は、アレクの背中を(背中の辺りの服を)掴んで、持ち上げた。
「仕方ない。今日はこれで終わりにするから、ちゃんと自力で帰って来いよ」
崖っぷちまで歩いて行って、ぱっと手を放すと、落ちる直前に、アレクはへ…?という顔をした。
「なるべく、大怪我しないで、下まで落ちろよ」
一瞬間を置いて、ぎょえええっという悲鳴が、ドップラー効果で遠ざかって行った。
「晩飯までには、帰るんだぞー」
聞いてないかも知れないが、一応念は押した。
ライオンは、我が子を千尋の谷に突き落として、登って来た者だけ育てるという、あてにならない言い伝えがあるが、聖闘士の修行では、そこまで非道い事はしないし、ライオンは普通、平地に住んでいる。
私は、単に突き落としただけで、登って来いとまで、理不尽な事は、言っていないのだ。
驚いた事に、本気で夕食までに戻ったアレクは、しかし、理不尽な事をされたと思っているらしかった。
「あの〜、まじでこれ、死にそうなんですけど…」
「そうか、死ななくて良かったな。明日は、痛かったくらいで済む様に落ちろよ」
「やっぱり、明日もあるか…」
アレクはうなって、戸口で前のめりに倒れた。
「こら、寝るな。飯が冷める。冷めるとまずいぞ」
「サガのは、あたたかくてもまずいから、平気…」
彼は、無礼なセリフをつぶやいて、気を失った。