第八章 山の生活 1. 2. 3. 4. 5.
第九章 北帰行  
1. 2. 3.

第八章 山の生活-2-

 話は変わるが、冬は寒い。
 まあ、当たり前の事なのだが、パダン山岳部の冬が、どれくらい寒いのか、真冬になってみなければ、本当の所は分からない。
 結論から言えば、心配した程の寒さではなかった。
 ただ、空気の乾燥した、晴れた日には、身を切る様な寒さが、襲う事があった。
 アテネでも、湿度の低い冬は、実際の気温以上に寒さが厳しく感じる日が続くが、何しろ暖房もあれば、密閉された部屋もあるし、聖域だって、寒い日には、生協食堂や執務室では、ストーブを焚いている。
 乾燥していて、実際以上に寒く感じる気候は、アテネと同じだったが、寒さはもっと厳しかった。雪でも降ってくれた方が、まだ、寒さがやわらかい。
 セーターを着たまま、布団に入っても、寝付けないくらいに、夜は冷え込む事があった。
 その晩も、ひどく冷えて、しばらくは寝られないで、布団の中で丸くなっていた。
 靴下をはいて、セーターを着ていたのだが寒いので、更に布団の上に、上着を掛けようかと思って、起き上がった。
 手探りで上着を探していたら、先刻外の便所へ行ったアレクが、さむ〜とか叫びながら、戻って来た。布団から出て、例のドア代わりの毛布をめくると、囲炉裏にくすぶっている炭に手をかざして、暖を取っているのが見えた。
「そんな格好で行ったら、寒いだろ」
「面倒で…」
 上着は着ているが、ズボンは履いてなくて、素足が寒そうだ。
「お師匠様は、まだ、寝てないの」
「寒くて寝られん。一緒に寝ないか?」
「え、本当に?」
 自分の部屋から、掛け布団を引きずって来た。
「うわ、散らかしてるなあ」
 言いながら、掛け布団を重ねて、寝床にもぐりこんだ。
「えへへ、人が寝てた布団って、ぬくい」
「そんなに真ん中で寝るなよ。わしが入れんだろ」
 無理矢理となりに入って、横になった。
 外へ出ていたせいで、手足が冷えきっていたが、しばらく暖まると、子供は体温が高いせいか、布団も暖かくなって来た。
 これは、暖かくてちょっと幸せだなあ…と、思った。
 良く寝るガキのアレクの方が、先にすやすや眠り始めたが、私もすぐに寝てしまった。

 それはそれで、しばらくの間は、実際に幸せな状況だった。
 大体、血圧が低くて、体温も高い方ではないので、根は頑丈なのだが、暑さ寒さは、割とこたえる方なのだ。
 子供の方も、ある程度の年になってからは、添い寝してくれる様な大人は、居なかったらしく、すごく意外だったが、擦り寄って甘えたりしていたのだが、ある日を境に、わしらの関係は、元のもくあみに戻った。(別に、関係なんて言うものでは、本当はないが)
 久し振りに幸せな夢を見て、気分良く目を覚ますと、アレクはもう、起きていて、居なかった。
 昨夜、じゃんけんで負けたので、朝食の支度は私の仕事だったのに、先を越されてしまった。
「うー、寝坊してすまん。朝飯、もう作っちまったか。だったら、代わりに掃除と薪割り…」
「お早ようございます」
 アレクは、冷静に言った。口調が冷たい。
「何んだよ、すまんって言ってんのに、そんな冷たい言い方」
 お湯を沸かしているアレクの頭を、ぐりぐりなでた。
「さては、すねてるな。オジサン、明日はちゃんと早起きするから」
「別にいいですけど、サガって寝起きが悪いですよね」
「血圧低いんだよ。わしってほら、繊細でデリケートなタイプだから」
 アレクは、いきなり遠い目をした。
「繊細でデリケートな人が、あんな事をしますか。僕、もう立ち直れないかも…」
「え…わし、何かした?」
 今まで寝ていた訳だから、当然何の記憶もない。
「起き抜けに、抱きついてキスされた」
 アレクは、ぼつっと言った。
 一瞬、話の内容が理解出来なかったが、ふいにずざーっと青ざめた。
 明け方に、すごく幸せな夢をみていた記憶はあるが、内容ははっきり憶えていない。憶えてはないけど、日曜の朝に、クリスと二人で、低血圧の朝寝坊を決め込んで、別に何をするでもなく、ぼーっとしながらいちゃいちゃしていた様な、そんな感じの夢だ。
「したか?」
「しましたよ」
「うーむ」
 子供は、相変わらず冷静な顔で、お茶の葉を、ナイフでけずって、ナベに入れた。この、冷静さが、かえって恐ろしい。
 私は、恐る恐る聞いた。
「…で、まさか、舌まで入れてしまったとか」
「ばっちり」
 更に、音を立てて、血の気が引いた。
「オジサン、やっぱり責任取らないといけないよな」
「とりあえず、一緒の布団で寝るのは、お断わりします」
 アレクは、断言した。

 やっぱり、たまってるんだろうか。
 いや、ストレスとかでなく、あっちの方である。
 別に、セックスなんかしなくても、人間死んだりはしないが、ちょっとは困る事もある様だ。毛も生えてないガキに、どういう言い訳をしたらいいんだろう。
 私が気にしていた程には、アレクはこだわっていない様子で、それから、元通りに別々に寝る様にして、事態はあっさり解決した。
 解決はしたのだが、夜寒いという事実だけは、全く解決出来なくて(当然だが)寒い生活が続いた。
 あまり寒いので、やっぱり一緒に寝ようよ…と、さそったのだが、アレクは、セーターとシュラフの二枚重ねの必殺技で、さっさと寝付いてしまった。
 大体、元から良く寝るガキなのだ。
「プライバシーを守りたいだろうって、部屋を別々にしたのは、サガでしょう。僕みたいな子供に、そんな事をしてくれて、感心したのに、今更何です」
「それは、あったかい時の幻覚だよう」
 泣き言を言ったのに、全然聞いてくれない。
「サガの恋人って、クリスっていうんですね」
「うっ…寝言でそこまで…」
「その人は、寝呆けてあんな事されても、許すんですね」
「寝呆けてなくても、進んでされるが、お前とは関わりない。とにかく、気温が低い間は、一緒に寝た方が、薪の節約にもなるし…」
「僕の事は、一体何んだと思ってるんです?」
 アレクが聞いたので、答えた。
「うーん、湯たんぽ」
 アレクは、きびすを返して、分厚い毛布をめくり上げ(相変わらず、ドアはなかった)部屋にこもってしまった。
「待ってくれ、お前は湯たんぽじゃなくて、大事な弟子だ」
 必死で訴えたのだが、何しろ強情なガキなので、なしのつぶてだった。
 困ったガキだ。

「困った奴はあんただがね」
 バシクと、連れの猟師のチャチャイは、二人で笑った。
「かかあと間違えて、しりなんか撫でられたら、気を悪くするのも、無理はないやね」
「しりは無事です」
 アレクは断言して、五人連れの猟師たちに、茶を配って回った。
 先刻、家の周りの雪をのけていると、山の奥の方から、村の男達が雪まみれになって、現われたのだ。
 むろん、この場所の方が、村よりはずっと山奥に近い。そっちから人が来るはずはないのだが…。
「茶はええから、酒はないんか」
「お酒は僕の管轄外ですから、サガにたのんでください」
「荷物が重くなるから、一本しか買って来なかったんだ。全部飲まんでくれよ」
 部屋に置いておいた酒を持ち出すと、大体予想はしていたのだが、全部飲まれてしまった。
「それにしても、こんな時刻に、山で何を」
 酒を全滅させられるのも癪なので、遠慮なく飲んでいる男達の間に入って、瓶から回し飲みしている輪に、加わった。
「猟に決まっとるがね」
 チャチャイという猟師は、前歯の二本抜けた口をあけて、笑った。
「大猟だわや」
 日焼けと雪焼けで、実際の年令は分かりにくいのだが、おそらく、バシクは私より少し年上で、チャチャイは少し下だろう。
 後の連中は、ずっと若い感じだ。
 平地に居る、同じモンゴル系の人間より、いくらか老けて見えるのは、気候が厳しいせいだろう。
「大猟って、何捕って来ただね」
 村の連中と話していると、アレクの発音に合わせていた、お上品な町言葉が、すぐにここらの方言になってしまう。何だか、こっちの方が、発音しやすいのだ。
「鹿と豹だわな。鹿の肉は、泊めてもろうたけ、ちょっと置いて行ってやるわ」
 そう言えば、ここへ来た時、今まで通りに、時々泊まってもいいかと聞かれた事があった。
 日没までに、村へ戻れないくらい、遠出した時に、この家を使っていたのだろう。
 翌朝に、皆が村へ帰る時、村の若い者が、山刀で鹿の腹をかっさばいて、毛皮にはほとんど傷を入れないで、肉の固まりを切り取って、置いて行ってくれた。
 毛皮は毛皮で、売るから…という話だ。
 豹とか呼ばれていた方は、本当に毛皮だけ取る為らしく、もう、中身はなかったが(中身があったら、ここまでは持って来られないくらい、大物だったが)どうも、普通の豹とは、柄と毛色が違う。
 天然記念物…とかいう単語が、脳裏をかすめた。
「高こ、売れるが…これ」
 皆が、屈託なく喜んでいるので、言い出せなかった。
「ワシントン条約って…」
 言っても仕方のない事だ。
 でも、誰が買うんだろう。

 冬の間、彼らは何度か、猟の帰りに立ち寄った。
 その内一度は、仲間の一人が、ひどい傷を負って、戻って来た事がある。
 山を良く知っている人間が、獲物を深追いして無茶をするとは、うかつな話だ。血糊の固まった服を脱がせると、肉がえぐられている。足の骨も折れていたが、こっちは命に関わる怪我ではない。
 ここまで戻るにも、かなりの時間を食ったらしく、もう、夜半を過ぎていたが、怪我をしてから、相当な時間が経っていた。
 ひどい顔色で、熱がある。
「悪いが、もう、村まで連れて帰ったら、持たねぇかもしんない。ここで養生さしてくれないか」
 バシクの様子が冷静なので、よくある事なのだろうか…。
「養生って段階じゃないだろ、これ」
 はっきり言って、入院させた方がいい怪我だ。でも、医者の居る所まで、運んでいたら、死ぬだろう。
「ここで死人が出たら、縁起が悪いから、だめか?」
 傷の具合を一瞥して、こいつが丈夫なら、どうにか助けられると踏んだ。
「別に、死体の三つや四つ、どうって事もないが、葬式を出すのはごめんだ。
おいガキ、お前の名前は?」
 怪我人を、乱暴にはたくと、目をあけて、シンリーと、小声で言った。返事が出来るなら、まだ、大丈夫だ。
 間仕切りの毛布をけとばして、大騒ぎの中を、根性で寝ているアレクを、たたき起こした。
「こら、起きて湯沸かせ」
 アレクは、怪我人を見て、ぎゃっと悲鳴をあげたが、さくさくとかまどに火を入れ、鍋をかけた。
「…たく、だから、酒全部飲むなって、言ったのに。おい、滅菌に傷口焼くぞ。泣いてもいいけど、暴れるなよ」
 手足が四本以上あれば、人一人押さえ付けるのは簡単だが、片手で焼けた山刀を握っていては、そうもいかない。
 幸い、皆が恐がらないで押さえていてくれたので、助かった。
 足の骨折の方は、一応手当てしてあったが、骨の位置が少しずれていたので、引っ張って伸ばしてから、きっちり固定した。
 ここまで乱暴な治療をされたら、普通は意識を失うものだが、シンリーは、まだ正気で居たので、鎮痛剤を、普通に使うよりかなり多く、砕いて飲ませた。止血剤もあるといいのだが、仕方ない。
「悲鳴もあげないとは、立派だぞ。でも、やりにくいから、ちょっと眠れや」
 意識に無理矢理同調して、ねじ曲げた。少年は、すぐに眠ってしまった。
「先生は、さすがだな。大したもんだ」
 こんな言われ方をするからには、ゼーテスも色々な事をしていたのだろうが、私は内心、腹を立てていた。
 いい大人が、何人も居て、子供にこんな大怪我をさせるとは何事だ。おまけに、子供の心配はしても、自分達が悪い事をしたとは、思っていない。
「わしは医者じゃないんだ。あんまり期待するなよ」
 きつい口調で言ってしまった。
 それでなくても、この国の人間に比べると、私は感情表現が大げさだと、よく言われるので、実際には、ひどくきつい口調に聞こえただろう。
「前の先生は、ここは拠点っていう、特別な場所だって、言ってたな。ここを血で汚したのは、すまねぇと思ってる。獲物の血だって、地面には流さねぇようにしてたのにな」
 実際の不潔とか清潔とは、全く別に、この国の人間が、汚れとかいう感覚に神経質なのは、知っていた。
 ゼーテスが、この人達との信頼関係を作ってくれていたから、こうして同じ場所に居られるが、実際には外国人だというだけで、既に汚れた存在なのだ。
 宗教や習慣が違うだけなのだから、本当は口出ししてはいけないのだろうが、腹を立てていたので、言ってしまった。
「正当な理由があるなら、ここを血の海にしたって、わしはかまわん。だが、こんなガキを猛獣にけしかける様な人間とは、親しく付き合いたくない」
 皆が、本当に意外そうな表情をした。
 私が、怒っている理由が、言われるまで理解出来なかったのだ。
 しばらくして、バシクが口を開いた。
「仕方ねぇよ。王様は、気が狂っちまったし、大統領たらいうお役人は、何もしてくれんで。都会から来た難民が、冬の間の町の出稼ぎ仕事は、みんな取っちまった。冬支度の買い物に、貯えも使っちまったし、ヤクもほとんど売った。
たくさん猟をせねば、春が来ても、バザーで交換する物がなくて、皆に食わせる物も買えねぇでな」
 淡々とした口調だったが、バシクの言葉には、説得力があった。
 私自身は、実家は貧乏だったし、ギリシャ自体、特に裕福な国ではないが、食うに困る様な目には、合った事はない。
 おまけに、放っておいても、自分の食い扶持くらいは(割とそれ以上)稼いでいる女と長年付き合っていた上に、子供も居なかったので、金に困った事も、全然ない。
 少し、言い過ぎたと思った。
「それに、あんたの国では、どうだか知らんが、こいつはもう、大人だで…」
 自分が、十一で聖闘士になった事とか、十代半ばのガキどもに、聖域の命運を任せた事を、思い出した。
 バシクが大人だと言うなら、大人なんだろう。
「そうだな。この国と、わしの国は違う。どっちが正しいとかでなくて、違うだけだ。ひどい言い方をして、済まなかったよ」
 バシクは、少し笑った。
 ほんのちょっと笑っただけだったが、大げさなやりかたはしない、この国の人間にしては、精一杯の笑顔だった。

 シンリーは、次の猟で、皆がここへ泊まるまで、預かった。
 物憶えの良い少年で、アレクに教えていた、机の上の学問は、聞くはしから、記憶してしまった。
 その頃から、英語やパダン語にまぜて、使い始めていたギリシャ語も、いくらか記憶してしまったくらいだ。
 これだけ物憶えが良くて、読み書きが全く出来ないとは、信じられないくらいだ。
「正中線て、急所が集まってるだな」
「そうだけど、ケダモノは頑丈だから、そこを攻めても、安心しない方がいいぞ」
「おれ、字が読める様になりたいけど、教えてくれるか」
 実は、パダンの言葉は、話せるけれど、まだ読み書きは出来ないのだ。
「それは、アレクに頼んだ方がいいな。わしも読み書きは出来ないから、一緒に教わるか」
「あの子は、育ちがええだね。言葉遣いも、上品で」
 テレビの普及してない国だから、今までバレないで済んだのだろうが、アレクが、実際にはもう死亡している事になっている皇太子だという事実を、私は忘れかけていた。
「あ…うん。ええとこの坊っちゃんだが、革命の時没落して、今は文無しのガキだ」
 適当に言い訳して、修行と家事の空いたわずかな時間に、二人で読み書きを習った。
 この国の言葉や文法に、馴染んでいる上に、記憶力の柔軟な十代の子供だという事もあって、シンリーの方が、先に読む事は憶えてしまったが、どうも文字を書くのは、苦手な様だった。
 村の人間は、何度か入れ代わり立ち代わり、様子を見に訪れた。
 次の猟で、皆が泊まる頃には、村まで戻れるくらいには、回復していた。
帰る時に、もう、無茶はするなと忠告すると、照れ臭そうに笑った。
「春になったら、嫁さんもらうで、ちょっと貯えが欲しくて、無茶したんだ。もう、やめとくわ。死んじまったら、あいつも泣くでな」
 年はいくつかと聞いたら、十七だと答えた。
「そうか、もっと子供に見えたよ」
「それで、おれが怪我した時に、あんなに怒ってただね」
 実際には、少し違うが、黙っておいた。
 シンリーは、チャチャイに背負われて、村に戻って行った。
 アレクは、少し名残惜しそうに、見送っていた。

 冬は厳しかったが、程なく春が来た。
 冬の間、実戦の訓練は、ほとんどしていなかったのだが(本気でやると、雪崩の原因を作りかねない。状況に合わせて戦える程の実力は、アレクにはまだ無かった)冬の間に続けていた精神集中の訓練は、子供の戦闘能力を、格段に伸ばしていた。
 子供は、最初不思議がったが、集中力の訓練が、どれ程効果があるか、実感すると、更に修行に身を入れた。
 新しく、課程を組んだが、もう、陰に隠れて弱音を吐く様な事もなく、無理な事は、無理だと自分から言って、やれる事は、どんどん先に進んだ。
好ましい状況だった。

 春は、すぐに終わって、短い夏が近付いた。
 政情が不安定で、村の暮らしも、楽ではなかった様子だが、夏祭りが近付くと、それでも村は、浮き足立った。
 昨年は、ここに馴染むので精一杯で、そんな祭りがあった事も知らなかったが、ずっと下の村とも合同で(シオンじいちゃんが報告していた村は、実はこっちではないかと思う)かなり盛大に行われるのだと聞いた。
 わしらは余所者だが、それなりに参加する事は、出来そうだった。

 祭りがあるので、来いと報せたのは、シンリーだった。
 春先に見た時は、まだ足を引きずっていたが、もう具合はいい様子で、ヤクの群れを追い立てて、山を登って来た。
 アレクは、庭先に棒を何本も立てて、一人で模擬戦の様な事をやっていたが、普通の人間の目には、もう、止まっていない時の動きは、捉えにくい。
 冬が過ぎてから、何だか急激に育ち始めて、去年の服は七分袖になっていた。
 何かのこつを掴みかけているのか、暫らく、真剣な顔で棒を睨んでから、何度か同じ事を繰り返していたが、シンリーを見つけると、子供の表情に戻った。
「あ、お兄ちゃんだ」
 シンリーは、短く挨拶して、あさってから祭りだから、来る様に誘った。
「いえ、僕はまだまだ修行中の身。そういう行事に参加させていただく訳には…」
 アレクが、勝手にうわごとを並べて断り始めたので、素早く首根っ子をつかんで、その辺に投げ捨てた。
 修行に手応えがあって、熱中しているのだろうが、どうもこの子供は、状況に酔いやすい面があった。
「そうか、じゃあ、有り難く寄せてもらうぞ」
 酒が飲めるかも…と、いやしい事を考えた。
「あ、それから」
 ヤクの群れに埋没している、小柄な娘を呼んだ。
「こいつが、いっぺん先生にちゃんとお礼言いたいって」
 話に聞いていた恋人だろう。
 おずおずと進み出で、この人を助けてもらって、感謝していると、小さい声で述べると、シンリーの後に隠れてしまった。
「大丈夫だが、先生は、見かけは恐ろしいけども、本当はいい人なんだ」
「こんな男前を捕まえて、なんちゅう言い草だ」
 怒鳴ったら、二人とも逃げてしまった。
 残されたヤクは、しばらくその辺で草を食って、勝手に村へ帰って行った。

 念の為に、久し振りに鏡を出して確認してみたら、本当に恐ろしいおっさんが写っていたので、思わずうなってしまった。
「…み…見なかった事にしようかな…」
 無精ヒゲが伸び放題で、雪焼けと日焼けとヨゴレが重なって黒くなったせいで、妙に目付きが鋭く見える。
 おまけに、ここしばらくは、行水もしていないので、元々硬くてくせのある髪が、何か大変な事になっていた。
 アテネ市内で、こんな奴とすれ違ったら、私だったら絶対逃げる。関わり合いになっては、大変である。
「アレク、わしはちょっと、川へ水浴びに…」
「お湯をわかして、お風呂にした方がいいですよ。水なら、汲んで来ますから」
 僕も入りたいし…と、付け加えた。
「うむ…さては、祭りに行くので、今から男前を上げる算段だな」
 風呂と言っても、囲いと屋根をつけただけの小屋に、四角い木の桶が設置してあるだけなのだが、湯上がりに寒いくらいで、別に事は足りていた。
 湯は、別に沸かして、桶に張るのだが、夏の間は、水のままか、少し熱湯を足したぬるま湯で済ませる事が多かった。
 しかしアレクは、お祭りでご馳走が食べられるかな…とか、うろんなうわごとを言いながら、ごんごん湯を沸かし始めた。
「気合い、入ってるなあ」
「年中行事の前には、身を清めておくものですよ」
「断ってたくせに…」
 湯が沸く間に、組み手の相手をした。
 小宇宙の力は、出来る限り押さえ込んで、生身の実力に近い力で相手をしたが、両手をポケットにつっこんだままで、軽くあしらってしまった。
 まあ、子供だからな…。
 地面に倒れて、肩で息をしていたが、服を脱がせて、風呂に突っ込むと、しばらくして、復活した。
 二人で、代わる代わる、湯につかって、外に出ては、体を洗って流した。最後に、少なくなった湯に、二人で浸かって、暖まった。
「お前、足長くなったな。少しそっち寄れよ」
「サガがかさばるんですよ。不必要に体が大きいんだから」
「わしが浸かってるから、肩まで湯があるんじゃないか」
「じゃあ、替わりに石、入れますから。石は、文句言わないし」
「くそガキ〜」
 いがみ合いながら、風呂に入った割りには、仲良くメシを食って、寝た。
いつもの事だ。

 祭りは、想像していたのとは、全然違うが、思っていたよりも盛況に行なわれていた。
 村の人口も、どう見ても二倍以上に増えている。
 町へ出ていた親類縁者も、戻って来ているという話だった。
 下の村とも、行きつ戻りつしながら、神様に奉納する踊りを演じているらしい。
 私らが、村に下りた時には、村の真ん中にある広場に、人が集まって、神楽を囲んで盛り上がっていた。
 娘や女房達は、ここぞとばかりに、じゃらじゃらとアクセサリーをつけて、晴れ着で着飾っている。
 男達も、鮮やかな色の衣装をまとっていた。
 この辺りの、正装の民族衣装という物を、初めて目にした。
一応、最近は着ていない、きちんとしたシャツとズボンをはいて来たのだが、こんな事なら、爪先にボンボンの付いた靴と、プリーツスカート込みの、ギリシャの晴れ着を着て来れば良かった。(持って来なかったけど)
 アレクは、少し短くなったものの、一番いい服を着て来ていたが、牢獄でピアスを盗られてしまったのを、気にしていた。
「サガ、耳飾り買ってくださいよ。安物でいいんです。やっぱり、魔よけがないと…」
 アレクの耳に、ピアスの穴があいているのは、前から知っていた。
 本当には、値打ち物の宝石がはまっていたのだろうが、監禁された時に、没収されたのだろう。
「オジサン、男にアクセサリーねだられたの、初めてだから、ちょっと考えさしてくれない?」
「サガだって、首から指輪下げてるじゃないですか。あれって、魔よけでしょ」
「あれは、魔よけじゃなくて、いざという時の備えと、愛情の証だ。いざという時に使うと、利息がつくので、出来れば愛情の証だけで済ませたい」
「複雑なの…」
 広場まで来ると、人の波が、奇声をあげて盛り上がっていた。
 猿の神様と、王様の寸劇だったが、大半は古い言葉で、理解出来なかった。
 猿神は、私の目から見ても、相当な訓練の要る動作で、奇妙な仮面と衣装をつけて、飛び回った。王様は、地面に伏して両手を伸ばし、懇願する。アレクは、真剣に見入っているが、私には、内容すら分からない。
 少し、疎外された気分になったので、広場を離れて、その辺をぶらぶら歩いていると、ふいに、目の前に花を差し出された。
 出された物は、たいがい受け取る習慣だったので、差し出された花を手に取ると、彼女は、はにかんだ様に笑って、少し離れた場所まで、踊る様に後ずさった。
 短い歌を少し歌って、彼女は自分の頭から、髪飾りを一つ外して、手渡した。
私は、意味が分からなくて、トルコ石(たぶん)の髪止めをにぎって、ぼんやりしていた。そろそろ、猿神の神楽をやっている広場に、戻ろうかな…と、考えていた。
 広場の方へ行きかけると、彼女は、ひどく傷ついた表情をした。
 お礼をしたらいいのか、これを返せばいいのか、分からない。
 始末に困って、立ちすくんでいたら、大工のシルドが通りかかった。
「いよっ、先生もてもてだね」
「ええっ、そうなの?」
 言い寄られていた事は理解したが、だから、どう返答したものか。
「祭りの時は、無礼講だよ。先生、その女が嫌いでなければ、好きにしていいよ。こんな事出来るの、祭りの時だけだよ」
「わしは、この辺では余所者だし、深く関わらない方がいいのだが…。とりあえず、どう返答したらいいのかな」
「女の方から告白したら、普通は断るのは不作法だよ。今の気持ちを、歌で返すのが、この辺の礼儀だ」
 シルドは、にこやかにそんな事を言うが、人間には、向き不向きという物があるのだ。
 こんな、恋の手管に歌なんか送り合う、心の細やかな人たちの前で、わしが、百万光年くらい音程の外れた歌なんか歌ったら、人死にが出るかも知れない。
 とにかく、言葉は通じるのだから、話し合わなくてはなるまい。
 私は、娘の手を取って、祭りの人込みから離れた場所へ、逃亡した。
 文化も習慣も違うが、話し合えば分かる…。
 この小娘は、絶対、何か誤解しているのだ。

 村を見下ろす高台まで登った所で、娘は、文句を言って、手を降り払った。
「どうして、こんな場所まで来るね。私が歌を送ったのが、恥ずかしいか」
「わしは、この辺の習慣には無知だから、君の行動は、理解出来なかった。だが、わしは異国の人間だ。見れば分かるだろう」
「知っているよ。とても強くて、優しい人だ。前の先生は、村の女を連れて、故郷に帰ってしまった。私も、海と潮風と、オリーブの国に行きたい」
 ゼーテスが、この村の女と一緒になって、それで拠点に留まっていたが、最後には、奥さんを説得して、故郷に戻った事は、公認の秘密だった。
「それは無理だ。わしは、故郷に結婚の約束をした女が居る」
 娘は、少し肩を落とした。
「だったら、どうして花を受け取ったね」
「この国の習慣を、知らなかったからだ」
「そうか、困った人だね」
 娘は、肩をすくめて、草の上に座り込んだ。
「だったら、この国に居る間だけ、私のいい人になれ」
 言われて、改めて見ると、小柄だが、色っぽい体付きだし、色は黒いが、ぽってりした唇は、すごく魅力的だ。
 まあ、見た目はそうなのだが、きっと小娘だ。
 この辺りの基準では、シンリーと同じで、大人なのだろうが、絶対小娘だ。
 別に、小娘が嫌いな訳ではないが、いい年をして、こんな小娘に手を出したら、絶対に悪いオヤジである。
「そーゆーのは、ちょっと、やってないんだけど…」
「そうか。それじゃ、仕方ないね」
 娘は立ち去ったので、猿神の神楽をやっている広場に、戻った。
 アレクは、何時の間にか、居なくなっていたし、顔見知りはたくさん居たが、特に親しい人間は見当らなかったので、少し手持ち無沙汰になってしまった。
 皆は、こちらに興味はあるらしいのだが、近付くのはためらわれるのか、遠巻きに見ているだけだ。
 何処からから聞こえる、歌声や楽器の旋律も、全く馴染みがない物で、私は、柄にもなく、少し心細い気分になった。
 広場から離れて、人の少ない方へ、ぶらぶら歩いていたら、また女に声をかけられてしまった。
「あれぇ、先生。今日は、さっぱりして男前だねぇ」
 もう、何を出されても、絶対受け取らない決心をして、振り返った。
 そこに居たのは、けっこう年配の女で、バシクの奥さんだと、紹介された憶えがあった。両手一杯の籠に、山盛りにした饅頭を抱えている。
「こんにちわ。重そうな籠ですね、運びましょうか?」
「だめだがね、男がそういう仕事をしては」
「あ、すみません」
 何かまずかったらしいので、とりあえず謝ったら、笑われてしまった。
「一個取ってもええよ。まだ、蒸してないけどな」
 籠をこちらへ向けてくれたので、先刻の決心は、心弱く忘れて、饅頭を一つもらった。皮は、少しねちゃねちゃしているが、中の具は複雑な味の挽肉で、けっこうおいしい。
「お祭りなのに、一人で不景気だねぇ」
 二人で居ても、ややこしい事になりそうなので、出来れば一人で居たいのだが、相手が身元の知れた人妻なら、安全だろう。
「この国の習慣が、まだ良く分からないので、不景気で居る方が、厄介ごとを避けられるんですよ」
 バシクの奥さんは、からから笑った。
「お祭りの時は、好きな様にして、ええだがね。あんたみたいな、強くて男前の子供は、皆んな欲しがるしな。家の宿六も、昔は男前でなー。祭りに乗じて、無理遣り…」
 うろんな話になって来た。
 私は、あわてて話題を変えた。
「アレクを見かけませんでしたか?その辺で神楽を見物していたはずだが、居なくなっていて…」
 バシクの奥さんは、一瞬心配げな顔をしたが、すぐに気を取り直した風に笑った。
「村の中におれば、危険な事なんか、特にないでな。賢い子だし、迷子になる年でもないで…」
「そうですね」
 彼女に限らず、村の人達の、我々に接する態度には、少しだけ不思議な部分があった。余所者に対して、多少親切過ぎる。
 ゼーテスの作ってくれた信頼関係と、山の子供ではないにしろ、同じ国の不運な境遇の子供を連れているからだと、一応の納得はしていたのだが、彼女がアレクの事を気遣った時に、また、ほんの少しの疑問が、よみがえった。
 その時、村の女達が、けたたましくお喋りをしながら現われたので、私は考えを中断した。
 祭りの仕出しをする為に、集まって来た様子だが、明らかに、第一の目的は、たわいないお喋りらしかった。
 クリスの母親と、その友人達に襲撃された過去を思い出し、私はそそくさと逃亡を決めた。
 女達の集団の、後ろの方に、先刻花をくれた娘が、少し離れて歩いて来ていた。
 こうして見ると、何だか少し、浮いている子だなぁ…と、考えながら、私はその場を離れた。

 村のそこここで、知り合いを見つけては、酒をよばれたり、料理をつまんだりして、祭りを見物したが、アレクは一向に見当らなかった。
 広場では、村を練り歩いていた、山車が、ぐるぐる回っていて、これから、村を出て、下の村まで行くらしかった。
 大変な力仕事だろうが、私は呼ばれなかったので、きっと、宗教か文化的風習に関係のある、大事な行事なのだろう。
 山車が出て行った広場は、少し閑散とし始めていた。昼時は過ぎたのに、アレクも現われない。
 きっと、どこかの家で、ご馳走をよばれているのだろう。
 村のあちこちに、祭り用の、綺麗な模様のついたランプが、灯され始める時間まで、私はその辺をぶらぶらしていた。
 ランプと云っても、中身は蝋燭が入っていて、模様を描いた布を、木枠に張ってある。
 ぼんやりした灯りを見ていると、昔、ロドリオ村でやっていた、移動映画屋を、思い出した。
 広場の立ち木に、スクリーンの布を張って、使い古された、雨が降っている様な映画が、いくつか上映された。
 少しきつい風が吹くと、オードリー・ヘップバーンの顔が、くしゃくしゃになったが、子供には訳の分からない恋愛映画なんかも、一生懸命見ていた。
 たぶん私は、自分でも気が付かない間に、少しホームシックにかかりかけていたのだろう。村の中心から離れて、高台の方へ移動していた。
 先刻、あの娘と来た場所まで、戻ってしまっていた。
 その事に気が付くより先に、もっと大変な事に、気付いてしまっていた。
電灯もない村のこととて、この辺りはもう、薄暗いが、周辺がカップルだらけなのである。
 しんみりホームシックなんかにかかっていた状態から、一瞬で我に返った。
「こ…こんな場所に、一人で潜んでいるわしは、あやしいのぞきのおっさん…」
 長年の訓練とは、恐ろしいもので、一般人相手に、完璧に気配を消して、私はそそくさと移動した。
 高台の、丘になっている場所を過ぎた時に、村外れの、街道を、こちらへ歩いて来るアレクを見つけた。
 似た様な年頃の女の子と、手をつないで、街路樹に吊されたランプの下を通る時に、少しまぶしそうな顔をして、笑っているのが見えた。

 翌日からは、また、いつもの生活に戻った。
 祭りの晩に、アレクは陽が落ちてから、戻って来た。
 遅くなってすみません…と、言って、おずおず家に入ったが、片手には、少ししなびた白い花をにぎっていた。
 花は、丁寧に押し花にされて、ずいぶん長い期間、彼の部屋の壁に飾られていた様子だった。

《つづく》