第八章 山の生活-3-
アレクが、ずいぶん見苦しい身形をしていると気が付いたのは、夏が終わりかけた頃だった。
もちろん、村の子供達だって、かなり粗末な服を着ているが、彼の場合、洋服の大きさが、全然体に合ってないのだ。
兄弟のおさがりの、大きすぎる服を着ている子供は多いが、こんな、ボタンも留めにくい服を、無理矢理着ている子供は、見かけない。
大体、ボタンそのものが、付いていないのだ。
どこで拾ったのか、さびの浮いた安全ピンで、留めてある。
ズボンは、買ってやった時は足首まであったはずだが、何時の間にか、折り返して、中途半端な半ズボンにして、履いていた。
ここへ来る前に買った靴は、もう、足が入らないのか、かかとを踏んで履いていた様子だが、近頃ははだしだった。
おまけに、髪の毛も延び放題で、前髪が目にかかって、うっとおしそうだ。
「うう…仮にも王子様が、村の貧乏な子供より、ひどい事に…」
私は、愕然となった。
自分が、服装に無頓着なので、気を使ってやるのをすっかり忘れていたが、子供というものは、どんどん大きくなるのだ。
まあ、今は夏だから、見苦しいだけで済むが、冬になったら、大事である。
とりあえず、庭先で髪の毛を切ってやりながら、必要な衣類を買い替える算段をした。
バザーで、何着かの衣類を、相手が泣いて謝るまで、値切り倒して買った後、小さくなった衣類は、程度のいいのは売り払い、残りは下着や袖なしのシャツに仕立て直した。
残った端布は、破れた服に継ぎを当てるのに、残しておいた。
セーターは、解いて編み直す為に、毛糸を買い足した。
編目の数や形は、正確に記録しておいたので、村の女の誰かに教われば、見苦しくても着られる程度の物は、作れるはずだ。
カノンの様に、絵を描いたりする才覚は無かったが、手先は同じくらい器用だった。
大体、修行や訓練中の聖闘士の動作に、長らく耐える様な衣類はないので(現代の技術なら作れるかも知れないが、すごく高価だろう)否応無しに、繕い仕事は上達してしまうのだ。
新しいのを買えば、もっと簡単なのだが、手持ちの予算で、全部を新品にするのは、ひどく贅沢だったのだ。
パダンの経済は、破綻しかかっていて、昨年の冬に銀行で受け取った貨幣は、紙屑に近い小銭になっていた。
生活費の振込みは、クリスの仕事だったから、貨幣価値の暴落を見抜けずに、うかつに一括で送金してしまった自分に、今頃腹を立てているだろう。彼女は、そういうタイプで、当然、次の対策も、とうに講じてあるはずだった。
それはそうなのだが、この国の人間が困窮している時に、いらぬ贅沢をする気持ちには、なれなかった。聖域の人間だって、昔はそうやって暮らしていたのだ。
誰か、セーターの作り方を教えてくれないだろうか…と、シンリーに尋ねると、村では比較的閑のある女を、捜しておくと答えた。
少しして、やって来たのが、祭りの時の、あの娘だったので、私は少しうろたえた。
彼女は、別に無礼講だった時の事など、こだわっていない様子で、解いたセーターの毛糸を、熱湯で煮るあたりの手順から、丁寧に教えてくれた。
冬支度の手順は、昨年と同じだったが、生活費の受け取りは、冬越しに必要な分だけだという手紙が、郵便局の方に、届いていた。
充分な金額だったので、特に生産的な仕事に就いている訳でもないのに、こんな風に生活が保証されている事が、妙に後ろめたく思えた。
むろん、聖域にとっては、大事な任務だが、この国の人間にとっては、仕送りで暮らしている、怪しい格闘家だ。
バイカラは、昨年と同じ様子だったが、細かい所では、あちこちに、貧困と荒廃が、見え隠れしていた。
難民は、明らかに増加して定住し、スラムを作っていたし、バシク等も、昨年と同じ様な満足な買物と商売は、出来ていない風だった。
郵便局に届いているのは、クリスからの事務的な手紙(それはそれで、彼女なりの愛情がこもっているのだが)だけではなく、とてもめずらしい事なのだが、カノンからの私信が、同封されていた。
アフロディーテは、筆まめな男で、年に二回くらいは連絡をくれていて、手紙なんか全く書かないタイプのデスマスクの伝言まで、報せてくれていたが、カノンが連絡して来るのは、初めてだった。
最初の出だしは、二人目の子供が生まれて、女の子だという報告だった。
その後は、近況の様な物が、しばらく書いてあったが、手紙の最後に、一度くらいはこちらに戻れないかという様な事が、遠回しな、歯切れの悪い文章で書かれてあった。
カノンらしくなかった。
クリスが、最近あまり、いい精神状態ではない様な事が書いてあって、それを見たとたんに、体がすうっと冷たくなった。
一度、戻って元気な顔でも見せれば、ずいぶん慰めになるだろうから…。もちろん、無理なのは知っているし、自分もソフィアも、気を配っているつもりだし、デスマスクも、閑ではないが、気を使ってくれている…。でも…
私は、手紙の後半を、何度も読み返した。
大声で泣き出したくなるのをこらえて、郵便局を出た。
彼女と話したのは、もう、一年も前の事だった。
一年は、あっという間だった。
電話をした時の、ざわざわした不安を、思い出した。
あの、強情な女は、絶対に自分から、泣き言なんか言わないだろう。
私は、つらい気持ちで、やみくもにずんずん歩いていた。それで、露天の間に居るアレクに、気が付かず通り過ぎる所だった。
彼は、言い付けられた買物の途中で、すでに大荷物を抱えて、一見すると、子供の人足か何かに見えた。
側には、一緒に来た村の男と、彼の息子が居て、三人で、寄ってたかって、露天商の品物を、値切りたおしていた。
ふいに立ち止まって、周りの人間を傷つけないスピードで身を隠したのは、妙な気配の人間が居たからだ。
この国の、同じ東洋系の人種だったが、うす汚れた上着に隠れた体格も、動作も、周囲の人間とは、全く違っていた。
チャクバ大佐と、一悶着起こした時に接した、軍人だ。
それも、使い走りの下っぱや、戦場で暴れる技術だけ身につけた、馬鹿者ではない。自分で作戦を組み立て、行動出来る類の人間だ。
そいつは、アレクをじっと、観察していた。
彼が、あまりにも汚いガキになっていたので、私は、用心する事すら、忘れてしまっていた。
誰が、買い込んだ米や雑穀や、豆の袋を肩にかついで、裸足で歩いている、波止場人足みたいなガキを、王子さまだなんて思う…。
私は、男の後ろに回り込みながら、少し記憶をけずってやるべきだろうか…と、考えた。しかし、記憶を操作された痕跡が残れば、チャクバ大佐あたりが、二年前の事件との関係を、疑い始めるだろう。幻朧拳というのは、そんなにデリケートな技ではないのだ。
その時、アレクが、明らかに男の視線に気付いた。
かすかに、身構える動作をしたが、振り返りはしなかった。
子供が、他人の鋭い視線を察知出来るほど、成長していたのは、意外だった。
私だったら、振り返って男を観察して、策を練るだろうが、彼は、全然違う真似を、いきなりやった。一緒に値切っていた、友達の父親の上着をつかむと、急に甘えた様な声で、不平を言ったのだ。
「父ちゃん、豆の袋が重いよう、いっぺんキャンプに戻って来てええか」
次の、父親の反応の方が、私にはもっと驚きだった。
その男は(名前は、思い出せない)アレクを、乱暴でない程度に小突くと、小言を言った。
「あほう、最近の市場は、泥棒だらけだで。荷物を置きっぱなしなんか、出来るけぇ」
軍人は、立ち去った。
キャンプに戻ると、アレクは、腕組みして、考え込んでいた。
私は、この子供を見くびっていたと思った。
自分自身で、策略を巡らせるのは、好きだったが、巡らされる立場に立った事は、稀だった。
アレクは、権力を維持する為に、自然淘汰された家系に生まれて、策略や謀略を、当たり前に見て、育ったのだろう。
「王子さまというのは、気楽な商売じゃないな」
「気楽だったら、サガが助けに来るまで、生きていたと思いますか」
アレクは、ため息をついた。
「僕は、父を非道い男だと思っていますが、生き残れる程度に、賢く育ててくれた事には、感謝しているんです」
わしは、普通の家の子供で良かった…と、思った。
無邪気な幼児の時代を、そんな環境で過ごすなんて、耐えられない。
「村の人間は、お前の身の上に、気が付いているな」
「困りましたねぇ」
アレクは、つぶやいた。
あの男は、妙な事を口走るアレクを、途方に暮れて見ていてくれるだけで、役目は果たせたのに、明らかにそれ以上の事をしてくれたのだ。
「僕は、あの人達を守る力は、まだないのに」
村の人間が、彼を守ろうとして、危険な目に合わないか、心配しているのだ。
「お前が王様だったら、ここも少しはマシになるだろうに」
「王政なんて、時代遅れですよ。民主主義が、最良とは、思わないけど…」
他人に聞かれると、少しマズイ会話なので、ギリシャ語で話した。
「とりあえず、今まで通り、気が付かないふりをしているのが、一番危険が少なかろう」
子供は、うなずいた。
荷物を、山まで持ち帰って、去年と同じ、冬が来た。
山は、去年と同じではなくて、帰り道に、冬支度の荷を狙う、山賊が徘徊していた。
アレクは、もうかなり強かったので、先に村へ帰るグループの護衛は、彼に任せた。
一日遅れで戻った私に、彼は、別に何事も無かったと告げて、また、冬籠もりが始まった。
昨年の冬は、肩の関節を外されて大騒ぎしたアレクだったが、今年は今年で、また、どうフォローしていいか分からない、愉快な真似を、しでかしてくれた。子供というのは、退屈しない。
この冬は、少し野外での訓練も、加えたが、基本的には去年と同じ事の続きだった。
アレクの集中力は、格段に進歩していて、むろん、小宇宙を操るとまではいかないが、時折、それらしきものの片鱗をのぞかせる事があった。
その日は、野外で少々きつい訓練をしたので、分担していた家事は休んで、自分で体をほぐして、休養する様に、言い付けておいた。
「では、先に休みます」
寒いので、汗をかいた下着は替えたが、セーターは着たままだった。
大きさは、あと一、二年は着られる様に編み直してあったが、編目が不揃いな上に、毛糸の太さと色が、ばらばらなので、異様なシロモノに仕上がっていた。
例の、編み物指導の小娘は、出来上がりを見た瞬間、青い顔をしてアレクの肩をたたき、男は見た目じゃないのよ…とか、なぐさめのセリフを吐いていた。
「おう、明日もあるし、早く休め」
子供は、部屋に入ってすぐに寝たらしいが、翌朝、朝食の支度をしていると、青ざめた顔で、外の便所から戻って来た。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
そういえば、便所の汚物もけっこう溜まっていたなぁ…と、思い出した。
冬の間は、臭くなくていいのだが、雪がある上に、地面が凍っているので、穴を掘って埋めるには、少々つらいのだ。
最初の年には、抵抗があって出来なかったのだが、今年は、畑の辺りにまいてしまおうと思っていた。
けっこう汚い事を考えながら、豆と芋の入った雑炊を炊き終わって、昨夜の残り物を温めようと、囲炉裏のナベを掛け替えた。
アレクは、普段だったら、自分が当番ではない時でも、味付けがどうの、煮物はアクを取れだの、雑炊に残り物を片端からまぜるな…などと、横合いから口出しするのに、今日は無言で、おまけに、自分の当番の水汲みに出掛けるでもなく、なぜかびしっと身仕度だけ整えて、囲炉裏を挟んだ向い側に座るのだ。
「おい、閑ならお碗くらい、取ってくれよ」
「お師匠様…」
最近、私の事は、名前で呼んでいたので、いきなりお師匠様とか言われて、うろたえた。
何か、無体なお願いでもされるのだろうか。
「赤の他人の僕を、今まで面倒を見てくださって、ありがとうございます」
うぐっ…と、わしは引きつった。
いきなり、頭をさげて、そんな事言われても…。
「僕はもう、聖闘士になる事は、出来ないかも知れません。お師匠様の期待に応える事ができなくて、心苦しいのですが、今まで指導してくださった事は、感謝しております」
「熱でもあるのか、お前」
額に手を当ててみたら、多少熱っぽい気がした。
「風邪でもひいたのか、んー?今日は、軽く流すだけにして、休むか?」
アレクは、うつむいて、返事をしない。
「ちょっと無理すると、すぐに体調崩すなぁ、お前って。まあ、メシでも食えば、少しは…」
「重い病気なんです、僕」
「はぁ?」
昨日の訓練で出来たあざ以外は、つやつやして、元気そうな顔なのに、何事なのだ。
どんなに疲れていても、その辺の大人よりもたくさんメシを食う奴が、どうして一晩で、重い病気なんかになるのだ。
「ちゃんとした設備のある病院に行ったら、たぶん僕は、捕まってしまうでしょう。そうしたら、サガにも、村の人にも、迷惑がかかります。だから、もう、このままで…」
いや、お前のうわごとは、さておいて…という言葉を、私は飲み込んだ。
「本当に治療が必要なら、国外へ脱出すればいい。身元がバレたら、亡命すればいいさ。どうせ、表向きは、そうしている事になっているんだ」
アレクは、黙り込んでいたが、続けた。
「修行が続けられなくなっても、お前を見殺しにしたりは、しない。だから、どこがどう、具合が悪いのか、まず、きちんと話してくれ」
アレクは、しばらく、言いにくそうにうつむいたままだったが、少し顔を上げて、小さい声で言った。
「さっき、お手洗いに行ったら…」
「うん」
「オシッコが赤いんです。僕、もう死んじゃうかも」
ああ、やっぱりそういう、くだらない事だった…と、内心思ったが、念の為に聞いた。
「…で、他に、どこか具合の悪い所があるのか?例えば、怪我や打撲以外の、痛い所があるとか…」
「いえ…体調は普通です」
一応、シャツをめくって、腹を出させると、下腹部辺りに、いくつかあざが出来ていた。
昨日、組み手の相手をした時に、二発くらいは、この辺に入った憶えがあった。角度からしても、間違いない。
「あのな…アレク」
「はい」
「そーゆー事は、格闘技をやってると、たまにはある事なの」
「はあ…?」
子供は、怪訝な表情をした。
「人間、顔をなぐられたら、鼻血くらい出るだろ」
「そうですね」
「腹を蹴られたら、たまには血尿くらい出るんじゃ〜!いちいち大騒ぎしとらんで、メシ食ったら、水を汲んで来い!」
「病気じゃないの?僕」
「99%違うと思うぞ」
アレクは、突然立直ると、すごい勢いで、メシを食い始め、二杯ほどお代わりしてから、更に元気になって、水汲みに出かけてしまった。
大体、わしは、それどころではないのだ。
バイカラで、不振な男を見かけたので、電話こそしなかったが、あれからずっと、クリスの事が気に掛かっていた。
どちらかというと、今まで、私は、気持ちの上では、支えてもらう側だった。
精神的に、ずいぶんまいっていた時期に知り合ったせいで、特に疑問にも思わないでいたのだが、クリスだって調子のいい時ばかりではない。
そういう時に、側に居られないのは、ひどく不安だった。
本当に、一度戻ってみようかと、真剣に考えた。
冬の間ならば、数日くらいここを空けても平気だろうが、テレポートで行き来する為の、確実な足場を確保するには(移動した先に、偶然人なんか居たら、洒落にならない大惨事だ)一度聖域と連絡を取る必要がある。
不可能ではないが、時間はかかるだろうし、一度戻ってしまったら、もう、ここへ帰って来る決心がつかないのではないかと、恐かった。
何度も、手紙を書いては読み返し、破り捨ててしまう様な事が続いた。
バイカラで買って来た、荒い紙のノートは、まだ少し、余裕があったが、春にならないと、手紙は送れない。
それよりも先に、ボールペンのインクが切れて、もう、何も書けなくなってしまった。
二三度、アレクに当たり散らす様な事をしてしまって、さすがにもう、うだうだやっていても仕方ないと気付いた。
春になったら、山を下りて電話をしよう。それが無理でも、手紙は送れる。
クリスは、一人で寂しいかも知れないが、いくら何でも、毛の色が替わって暴れたり、シオンじいちゃんをどつき回したりは、しないだろう。…たぶん。
アレクは、少し不機嫌にはなったが、きつい事は言わないでいてくれた。
その年は、ここらの者にとっても、かなりきびしい冬だったらしく、村の中でも、いくつか、火が消えて、空き家になっている家を見かけた。
家族で、村を捨てて、山を下りる者が出たという話だ。
バイカラの状態を見て来ただけに、山を下りて、どうやって暮らして行けるのか、心配だった。
村を離れた家族の中には、懇意とは言わないが、多少は親しかった者も居たからだ。
「もう、シルドに屋根を直してはもらえねぇんだな」
猟の帰りに寄ったバシクは、ずいぶん疲れた顔をしていたが、前歯の欠けた口をあけて、少し笑った。
「あいつは、大工の腕もあるで…。まあ、平地に居れば、家や薪がなくとも、凍えて死ぬ事はないしな」
去年より、猟師の数は減っていた。
チャチャイは、年老いた母親が、この冬が越せなくて亡くなったとかで、暗い表情をしていた。
シンリーが、村を出た家族から、ニワトリを買い取ったが、餌をやる余裕がないので、何羽か引き取らないかと持ちかけた。
卵を生む雌鶏を…という条件で、一羽買い取って、半分は現金で、残りは買い置きの豆で交換した。
雌鶏は、三日に一度しか、卵を生まない上に、暖を求めて布団に入って来るし、おまけに、朝になっても鳴かないシロモノだった。
文句を言うと、明け方に鳴くのは、雄鶏だけだと、呆れた表情で言われた。
この年になっても、世の中には、まだまだ、知らない事がたくさんある。
カバンの底から、ペンが一本出て来たので、暫らく振りに手紙を書いた。
レブマで軟禁されていたホテルのボールペンで、便箋まで何枚も発見された上に、歯ブラシと石鹸まで入っていたので、自分の手癖の悪さに、しばらく唖然とした。
あれから二年も経つなんて、信じられない気分だった。
何かあるのなら、一度戻るから、連絡して欲しい…と書いて、便箋をたたんだ。
今書いても、出せるのは、年が明けてからだろうなと思うと、何だか少し、悲しい気持ちになって来た。
『カノンから、ずいぶん気持ちがふさいでいると聞いた。
何かあったなら、報せてほしい。必要なら、一度そちらへ戻る事も、考えている。
お前に辛い事があったのに、知らないで居るのは、悲しい。
春になったら、もう一度連絡する。元気で居てくれ、でも、無理はしないで。』
取っておいた、きつい酒を少し飲んで、空になったコップに新しいのを注ぎ、書き終わった手紙を封筒に入れた。
手元のランプを消そうとして(酒を飲むだけなら、囲炉裏の残り火で充分だ)屈み込んだ時、背後でかすかに気配がした。
「サガ、まだ起きてるの?」
ドアの代わりの毛布を、少しめくって、アレクがこちらを見ていた。
「ああ、どうした。明るくて寝られなかったか」
「そうじゃないけど」
アレクは、何か言いたそうに、口ごもった。
「だったら、早く寝ろ」
「うん…」
子供は、しばらく言い淀んでいた様子だが、結局、何も言わないで、自分の部屋に戻った。
春先になって、私は早々に、山を下りた。
先月始まったバザーで、手紙は出しておいたが、まだ、届いているかどうか、確信は無かった。
バイカラの郵便局には、何の連絡も入ってはいなかったが、銀行には、こまめに当座の生活費が振込まれていた。
時差の事も忘れて、電話をかけてしまったにもかかわらず、クリスはすぐに、自宅の電話に出た。
「はい…」
思っていた程、暗い声ではなかったので、ほっとした。
「わしだ…」
「うん、すぐ解った」
「ごめん、夜中だったな。声が聞きたくて」
「平気よ、明日は休みだから」
世間には、日曜日とか休日があった事を、久々に思い出した。
「手紙、届いたよ。心配かけたんだ…ごめんね」
「そんな事はいいんだ。何かあったなら、心配くらいはさせてくれ」
「特に、何かあったって訳じゃないの。ただ、ちょっと…」
しばらく、声が途切れて、沈黙が続いた。
たぶん、彼女は、泣いていたのだと思う。
次に、口を開いた時には、しかし、意外に明るい声で、話し始めた。
「寂しかったの。…そうね、自分でも、けっこうひどく、落ち込んでたと思う」
無理をして、明るく振る舞っている様子ではなかった。だったら、もっと強がってみせるだろう。
カノンが報せて来るくらいだから、本当にひどい状態だったのだろうが、今はもう、大丈夫なのだろう。
「そうか。こっちは、変わりないよ」
どうしようか、一瞬迷ってから、切り出した。
「一度、戻ろうか?」
クリスも、しばらく考えているらしかった。
少し間を置いてから、彼女は言った。
「そうね」
その瞬間に、本当は戻りたくないのに、気が付いた。
アレクを一人で置いて行くのは、ひどく残酷な気がしたし、たとえ帰っても、また、彼女と別れなければならないのが、嫌だった。
クリスが、同じ事を考えていたのか、それとも、私の思い付きそうな事を分かっていただけなのか、それは知らない。
「会いたいけど、どうせまた、そっちへ戻るんでしょ」
「…まあ、それはそうだけど」
「だったら、いい」
「すねてるのか、お前」
「悪い?」
「いや…」
返答に困っていたら、クリスは少し別の話を始めた。
「沙織ちゃんにね、ちょっと複雑な仕事を、頼まれたの。今、戻っても、もしかしたら、あたし、聖域に居ないかも…」
「そうなのか」
アテナが、グラード財団の総帥として、一体どんな事をしているのか、知る術は無かったが、クリスが関係しているなら、おそらくコンピューター関連だろう。
「また、電話して。来月なら、ずっと居るから」
「うん。ヤバい事はするなよ」
「そんなの、とっくにやめてるよ」
クリスは、笑った。
それから、少し、事務的な口調になった。
「あんたが、引き出したって報告した金額と、こっちが振込んだ金額が、一致しないの。あと一ヵ月、お金の出し入れはしないで、様子を見て欲しいの。大丈夫?」
「必要な物は買った。どうにでもなるさ。それで?」
「一月後に、残高を照合して、報告して。トラブルがあるなら、こっちで解決するから」
「現地に居るわしがやった方が、早いんじゃないのか」
一応、聞いてみた。
「下手に動かないで。何かあったら、報せるわ」
「うん、分かった」
一瞬、会話が途切れて、ふいにクリスは言った。
「愛してる」
「え…?」
「電話してね。それじゃ、また」
いきなり、電話は切れて、私はしばらく、まだ続きが聞こえて来ないかと、聞耳を立てた。
長い付き合いなので、彼女が私を好いてくれているのは、分かっていたが、クリスの方から、こんな事を言われたのは、初めてだった。
何だか少し、不思議な感じだが、悪い気はしなかった。
私が、年甲斐もなくにやけたオヤジになって、山に戻ると、アレクは、普段通りに、家事を済ませて、一人で訓練の続きをしていた。
「お帰りなさい、サガ。お土産は?」
「忘れた」
駄菓子と、何か読む所の多い雑誌を、買って来てくれと頼まれていたのだが、すっかり忘れてしまった。
「ええーっ!」
「忘れた物は、仕方ないだろう。来月、また、村へ行くから」
「ちぇ、ずるいの。僕が忘れ物したら、怒るのに」
「じゃあ、お前が怒れ」
「どうやって?」
「そんな事まで、わしが知るか」
クリスの伝言を思い出したので、付け加えた。
「実は、一月後まで、金の出し入れが出来ない。がまんしろ」
「どぇーっ」
アレクは、飛びさがった。
「どうして、そういう事を、気軽に言うんですか。今現在、家にいくらお金があって、買い置きの食料品と雑貨がどれだけ残ってて、支払いがいくら滞っているのか、知っているんですか」
「若いのに、こまかい事ばかり気にしてると、ストレス溜まるぞ」
アレクは、遠い目をしてぶつぶつ言い始めた。
「この人の弟子になった時に、分かっていたはずなのに…。まだまだ青いな、僕も…」
「お前、涙目になってるけど、大丈夫か?」
「誰のせいなんです」
アレクが暴れ始めたので、わしは逃げた。
アレクは、修行で疲れているのに、その合間をぬって、少ない予算で、よくやりくりしていた。
貨幣価値が暴落したのに、追加で送った金に、あまり手を付けていなかったのを、クリスは不思議に思っていたらしい。
貧乏育ちのわしより、王子様のアレクの方が、経済観念がしっかりしていると云うのは、不思議な話だ。
「サガこそ、貧乏自慢している閑があったら、少しは今の生活の事も考えてください」
「何んだと、家は本物の貧乏だぞ」
「貧乏で困ってたのは、サガのお母さんで、サガは子供だから、別に困ってなかったでしょう」
「う…それは…」
「僕は、今現在、王子様育ちで子供だけど、生活に困っているんです」
「わしが、甲斐性なしだと言いたいのか」
「そこまでは言ってませんけど、それに近い事は、少し…」
私がむっとしていると、子供は更に続けた。
「博打狂いの亭主に、けなげに仕える奥さんって、こんな感じかなあ」
「わしは、賭博などせんし、お前を女房にするつもりもない」
「だったら、お金ちょうだい。愛人でもいいから」
「どあほう」
怒鳴ってから、背後に気配を感じたので振り向くと、例の小娘が、ふるふる震えながら、戸口に立っていた。
アレクは、何の言い訳もしないで、奥へ行ってしまい、わしは一人で、師弟ホモじゃないんだ…とか、ごたくを並べるはめになった。
貧乏は、人を狂わす。